tokyokidの書評・論評・日記

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書評・銃と十字架

tokyokid2007-04-14

書評・★銃と十字架(遠藤周作著)中公文庫

【あらすじ】 
 本書は戦国時代に、いまの大分県・国東(くにさき)半島で、キリスト教イエズス会の教会信徒つまり切支丹の子として生れた「ベドロ岐部」の物語である。当時新設されたばかりのイエズス会経営の有馬神学校に学び、やがて国内での切支丹迫害が始まり、徳川家康の禁令により日本から追放されることになったペドロ岐部は、まず長崎からマカオに渡り、さらにインドのゴアに行ってそこから先は日本人としては初めて(船でアフリカ最南端の喜望峰を回る海路によってではなしに、距離的には短いが当時も今も回教徒以外の人種では横断を試みる者が極めて少ない危険な)陸路中東の砂漠を横断してまず聖地・エルサレムに至り、さらにローマに渡った。つまり日本人で初めてエルサレムを訪れた実在の人物・ペドロ岐部についてのノンフィクションである。蛇足ながら、ペドロ岐部が当時の戦国時代に決行せざるを得なかった破天荒なこの訪欧大旅行は、「天正少年使節や、イエズス会宣教師による引率などの組織の保護なしに」個人の自力で成し遂げられた、日本人として最初の快挙であった。
【読みどころ】
 本書は全部で十二章からなるが、著者はその名の通り周到に戦国時代日本と当時日本にもたらされたばかりのヨーロッパの宗教であったところのキリスト教との係わりを、最初の三章、およその分量で全著作の四分の一のスペースを割いて読者に説明することを忘れない。この導入部分でわれわれは当時の世相を確認することができる。日本国としての政治と経済のつながり、為政者と宗教との軋轢、戦国時代という激動の時代背景と信長・秀吉・家康と短期間に替わった日本の三代の君主たちと、当時キリスト教イエズス会派のフランシスコ・ザビエルによってわが国に紹介され、もたらされた新種の宗教との係わり合い、それらの大きな流れに翻弄される切支丹と呼ばれた信者たちの人生の帰趨、などである。宗教は心の問題であるから、この激動の時代に当時の日本人が、ヨーロッパ人が、そして日本国という国家組織が、またイエズス会という宗教組織が、どのように反応し合い、その結果が人間の最小単位である個人生活にどのような(厳しい、極限状態の、としか言いようのない)影響を及ばすに至ったのか、著者はベドロ岐部というひとりの人間を描くことによってあぶり出した「人間の業」というものを、底知れぬ深みをもって、われわれ読者に突きつけてくるのである。
【ひとこと】
 この本を読めば、昔も今も、人間の差別行為というものは永遠に存在するものであることに気付かずにはいられない。逆に見れば、人間の歴史は差別との戦いの歴史という重要な側面を持っているのだろう。同じイエズス会の神父の日本人蔑視論を押し切って「有馬神学校」の建設を推し進めた巡察使・ヴァリニヤーノ神父の話も本書にでてくるが、同神父が伊東マンショ千々石ミゲルなどを選抜して天正少年使節としてヨーロッパに派遣する途中で、ヨーロッパ人による植民地経営などの「悪しき」行為を見せないように苦心するくだりがある。結局はこの少年使節団はそれらをつぶさに見てしまうのだが、その結果はそれぞれの個人によってその後の生活態度における表れ方が違ってくるのである。千々石ミゲルのようにあとから転宗して為政者側に立ってかつて自分も属したキリスト教者を弾圧する側に回る者と、政治的な迫害により布教が絶望的な日本の現状を承知の上で日本に舞い戻り、聖書にいうところの「迷える子羊」である信徒の一灯たらんと志すペドロ岐部のような者と。
ペドロ岐部は、自力で直接ローマに赴いて研鑽を積み、長年自分が目指していた神父職に叙階される。ローマの影響下にあれば、やすやすと身の安全を図れるのに、彼が日本に残してきた、ということは、彼がいちどは見捨てて出てきた日本の信徒を忘れることができず、みすみす捕らわれることが充分に予測できる日本へと帰っていく。著者はペドロ岐部の日本への帰国の途中で、彼は往路と反対にローマからゴア、さらにマカオまでは来たわけだが、そこからいったんシャム(タイ)のアユタヤに戻った場面を見逃さない。そのときのアユタヤには、日本人の山田長政が勢力を張っていたころである、と著者は書く。だが著者は山田長政とベドロ岐部が会った記録はない、とも書く。このあたりは「王国への道・山田長政」の著作がある著者の独壇場の感がある。ペドロ岐部は一転して日本帰国の途につき、鹿児島県・坊ノ津に上陸する。そのあとのことは、その前後の著者によるペドロ岐部の心理描写と併せて圧巻の個所であり、だからこそこれは読者自身が本書で確かめるべきことであろう。
評者は、当時の日本の為政者たちが、キリスト教弾圧に乗り出したことを一概に責めるものではない。歴史上の事実で、本書でも触れられている文禄五年(一五九六)、土佐に漂着したイスパニア船の「サン・フェリペ号」事件は、次のようなものであった。すなわち秀吉の名代として調査のため同船に派遣された五奉行のひとりである増田長盛に対して、水先案内人のフランシスコ・サンダという者が「スペイン国は、版図は広大な国である。それらの国を奪ったについては、まず宣教師を送って住民を懐柔し、しかるのちに軍隊を送るのだ」(この項「島原・天草の諸道」司馬遼太郎著・朝日文芸文庫を参照した)と発言する。信長の麾下にあった秀吉は、宗教団体である仏教徒と信長の間の確執をつぶさに体験しているから、この一言は彼をしてヨーロッパからきた新しい宗教であるキリスト教を警戒させるに充分以上の効果があったと思われる。事実その後の世界の歴史を見ても、中南米諸国、フィリッピン、メキシコ、中国などの「キリスト教旧教と呼ばれるカトリック国が宗主国であった植民地の例」を見れば、明らかなことである。そして「イエズス会派」はキリスト教旧教の海外経営の核であったことは、当時の日本人にも周知の事実であった。もちろん著者が本書で言うように、宗教が武力で他国を侵略したのではないかも知れないが、政治がそうするのを宗教は黙認していたという事実を消すことはできない。評者にはこのサン・フェリペ号事件を契機に、キリスト教弾圧に走り、さらに鎖国政策の徹底に走った徳川幕府の、いわば国内安全第一の施政方針を難じることはできない(そのあと、アメリカにさえモンロー主義といわれた国際的引きこもりの時代があった)。非難どころか、そのゆえに、日本は現在に至るまでアジアでは数少ない、西欧列強国の植民地になったことのない、独立を貫くことができた、ごく例外的な国で有り得たのである。われわれ日本人は、むしろこれらの頭脳明晰・行動果敢な先人をもったことこそ誇るべきであろう。もちろん鎖国によって西欧文明に遅れをとり、明治維新になって「和魂洋才」の名のもとに、短時間内に「西欧に追い付き、追い越せ」を合言葉に、急ぎに急いだ結果の正否はまた別の問題である。
【それはさておき】
 巷間伝えられるところによると、著者の遠藤周作は、自分が主宰する劇団の名称を「樹座」とするなど、生前の日常生活においていつもユーモアを忘れない人であったようだ。代表作として挙げられる「白い人」「沈黙」「海と毒薬」「おバカさん」「ぐうたら人間学」などを読んでも、頁のすみずみに至るまで著者のあたたかい「弱者」に対するいたわりの目を感じないではいられない。ところがこの「銃と十字架」の「あとがき」において、著者は自身の言葉で、本書の主人公のペドロ岐部に関して「彼は今日まで私が書き続けた多くの弱い者ではなく、強き人に属する人間である」と書く。逆境に自力だけで立ち向かった人間像、という意味ではまさしくその通りであろう。だが評者はどうしてもここに「組織につぶされた個人の悲劇」を見てしまうのである。やはり著者は、ペドロ岐部の人間としての強さを描きながらも、当人の人類愛の発揮をさまたげてやまなかった国という最大・最強の組織の弾圧が作り出した個人の悲しみも同時に描いてみせたのだ、と思わずにいられない。やはり人間の本質というものは、そうそう変るものではないのである。□