tokyokidの書評・論評・日記

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書評・魏志倭人伝

tokyokid2007-04-06

書評・★魏志倭人伝(石原道博編訳)岩波文庫

【あらすじ】 
 底本にした岩波文庫のこの本の正式の題名は「新訂・魏志倭人伝後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝」といい、シリーズ名として「中国正史日本伝(1)」と記されてある。一九五一(昭和二六)年十一月五日に第一刷が発行されたものの、二〇〇六(平成十八)年五月二五日の第七六刷である(下記のように、この間に改訂・改版がなされている)。無慮半世紀を越えていまもなお増刷されているわけだから、息の長い本ということができる。もともと岩波文庫には、同じ編訳者の同じ題名の文庫本があって、その内容に現代語訳・影印による原文を付したので、一段と迫力を増した。本書の「まえがき」によると、原稿のこの改訂作業は一九八四(昭和五九)年に、茨城大学名誉教授であり文学博士であるところの同一の編訳者によっておこなわれた。この「書評」では、「魏志倭人伝」のみを取り上げる。
【読みどころ】
 ご承知のとおり、「魏志倭人伝」は外国である中国から見た、当時の日本に関する、現存する最古の文献である。原著の著者は当時の中国・晋の「陳寿(ちんじゅ・A.D.二三三〜二九七)」とされるが、この記事に関して陳寿は同時代の魚豢(ぎょけん)の「魏略」によるところが多いとされている。なお「魏志倭人伝」というのは通称で、本来は陳寿が選んだ「三国志・「魏志」巻三〇・東夷伝倭人」の項を指す。「魏志倭人伝」そのものは、本書の原文を見ていただくとよくわかるように、段落も句読点もなくただただづらづらと書き流してある約二千字の漢文の文章である。陳寿は三世紀の人であるから、原文は三世紀に書かれたはずなのだが、現在伝わっているところの「魏志倭人伝」は、作家の故・松本清張によると「写本である十二世紀の南宋紹興版・三国志」ということになる(清張通史1・邪馬台国講談社文庫)。だから松本清張に限らず、いまに伝わる「魏志倭人伝」は、陳寿の書いた原文から写本を重ねられたものなので、その間に誤字や脱落があるのはむしろ当り前である、という見方が一般的なようだ。なお日本の最も古い歴史書である記紀古事記日本書紀)は八世紀の成立であるから、いま私たちが読んでいる紹興版・魏志倭人伝のほうが、(オリジナルは三世紀作としても)写本完成時期としては記紀より後、ということになる。
【ひとこと】
 約二千字の「魏志倭人伝」は、外国人であるところの中国人が、三世紀当時の日本人ないしは日本国(国家としてはまだ成立していなかったにせよ)を、客観的に記事にしたのが特徴である。内容は、当時の朝鮮半島における宗主国・中国政府の出先機関があった帯方郡(いまの韓国・京城)から邪馬台国に至る方向や距離を、訪問使節が見た日本の情景とともに描写してある。それでは邪馬台国はどこにあったかといえば、方向と距離がわかっているのだから、その所在は容易にわかりそうなものであるが、それがいまだに特定されていない。邪馬台国は北九州地方にあったであろうとする京都大学説と、同じく大和(奈良県)地方にあったであろうとする東京大学説が並立していて、いまだに結論がでていない(もちろんこのほかにも候補地はたくさんある)。最近は考古学も進んで、最初に本書が書かれた頃はまだ詳細が明らかにされていなかった「吉野ヶ里遺跡」などもその後だんだんと研究が進んできたが、この問題には専門家から素人を含めて、多数の人が研究結果を上梓して論戦を繰り広げている。本書から出発して、その方面の膨大な著書を漁り読むのも楽しみのひとつである。本書には巻末のかなりの頁を割いて、十三頁にわたり、参考文献を羅列してあるが、これだけみても、この問題は日本の古代史の別格ともいうべき国民的なレベルの大問題であると言えよう。
【それはさておき】
 邪馬台国はどこにあったか、その謎解きが読者にとっては最大の関心事であろう。でも性急にその場所を特定に走るのではなく、当時の対馬壱岐を通って北九州地方までは間違いなく来たであろう中国の使節が見たことを書いてあるのが本書なのだ。これらの地方にどのような人が住み、どのような暮しをしていたか、その点だけにしぼってこの魏志倭人伝を読むのも、日本人の起源を考察することにもつながり、ひいてはいまに続く日本人の風俗習慣やものの考え方の基礎を考えてみる上でも、汲んでも尽きない泉のように、興味のあることなのである。□