tokyokidの書評・論評・日記

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書評・肩書きのない名刺

tokyokid2007-04-10

書評・★肩書きのない名詞(三国一朗著)中公文庫

【あらすじ】
 著者の三国一朗(大正十年・一九二一〜平成十二年・二〇〇〇)は名古屋市生れ、ラジオ・テレビの司会者として有名であるが、エッセイストとしても名を成した。この「肩書きのない名刺」は一九八〇年に日本エッセイストクラブ賞を受賞した。全体を五部に分けてあるが、第一部は江戸屋猫八・越路吹雪などの仕事上の交友関係者、第二部は日常の言葉、古書、新聞の切抜きなど言葉に関係するもの、第三部はラーメン、みそ、あずきなどの食べもの関係、第四部はいわゆる典型的な随筆、第五部は司会を担当したテレビ番組「私の昭和史」などの内幕もの、という構成であり、どれをとってもまことにすぐれたエッセイばかりである。
【読みどころ】
 上記のように、著者の三国一朗名古屋市生れであったが、旧満州・カラフトなどで軍隊経験があり、戦後は朝日麦酒のサラリーマン生活を経て放送界入りをした異色の経験の持主であった。ラジオの深夜番組の司会から始まり、十年間・五〇〇回以上続いたテレビの東京12チャンネルの「私の昭和史」の司会者として有名であった。聞き上手として知られ、エッセイストとしても名を成した。このエッセイ集「肩書きのない名刺」には、昭和三十三年(一九五八)から五四年(一九七九)までのエッセイ三九篇が収められている。エッセイが書かれたこの時期は、昭和二十年(一九四五)の敗戦ののちの、戦後復興期から経済高度成長期に当るところの、当時を生きた日本人にとっては忘れられない時期である。その後一世を風靡した、昨今のNHKプロジェクトX」の(前半の)時代、といえば、わかりやすいだろうか。著者は、昭和二七年(一九五二)戦後の混乱期に、当時有楽町駅前のスタジオで、それほど長続きするとも思わずに深夜のラジオ番組の司会者を始めたが、八年九個月間も続けてしまった、と書いている。第一部「妖怪とパートナー」のなかで、著者は深夜放送のために、夜十一時ごろ毎日会館・七階にあったラジオ東京のスタジオに出勤すると、入口あたりの路上に立っている進駐軍相手の夜の女たちが、風雪の夜は彼女たちも催す尿意に閉口して、守衛に頼んで毎日会館一階にあるトイレットを借りていた、というくだりがある。現今のビル訪問者はなべてテロ爆弾の仕掛人であるという前提の管理・防犯体制からみれば、古き良き時代の話だ。そのころ「パンパン」と呼ばれたこれらの夜の女の生態を書き残しているエッセイも珍しいと言わねばならないが、このいわば日本人全体が飢えていた時代の東京の町のたたずまいを残したエッセイは、その時代を生きて記憶にもあるわれわれにとっても、稀少価値があるというものだ。有楽町駅が「ラクチョウ」、新橋駅が「バシン」と呼ばれた、いまの有楽町駅前の「マリオン」にはそのころ「日劇(と朝日新聞社)」があって、喜劇役者のトニー・谷がソロバンをガチャガチャいわせながら「あんたのおなまえ、なんてーえの?」と演っていたころの、さらに十数年前の話である。
【ひとこと】
 旧日本陸軍と海軍は仲の悪いことで有名であった。現在のアメリカでいえば、「統合参謀本部」に当る組織が「大本営」としてあるにはあったが機能せず、事あるごとに陸軍は横車を押して旧満州支那(いまの中国)で軍事行動を起こして暴走を始め、独伊と防共協定を結び、米英そのほか世界のほとんどの国を相手に回して亡国の戦争に突っ込んでいく。「防共協定」というなら当時のソ連が仮想敵国であるべきで、どこをどうごまかして米英と戦いを交える行動に論理を持っていったのか、その辺のメカニズムは日本人のメンタリティが戦争を起こす過程のよき研究材料となるだろう。その陸軍と海軍の軍人に、戦後の「私の昭和史」で著者はインタビューを行ったときの印象を、第五部の「テレビ番組“私の昭和史”について」で、以下のように書いている。「海軍爺さん」などといわれる旧海軍熱狂派の作家・阿川弘之氏の著作などと読み比べて、まことに興味ある事実が書いてあるので紹介しておく。当時海軍の軍人は陸軍の軍人を称して「まぐそ」といったそうだが、これはとかく海外に演習航海などに出かけて見聞を広める機会のある海軍軍人が、がんじがらめの規則づくめで融通の利かない陸軍軍人を風刺した言葉だろう。著者は言う。<以下引用>「たとえば、かりに東海道新幹線が新大阪から岡山まで延長された話題について私が質問したとすると、海軍氏はすぐさま新大阪からはじめる。それが常識というものである。しかし陸軍氏の場合は、そうはいかない。彼はおもむろに東京から説きはじめる。(中略)わずか二十数分の対談で(中略)なぜ東京から説き起こす必要があるのか。多くの陸軍氏には、このような時間の観念・計算の能力・頭の切り換えが欠けていた。きびしく評価すれば、この種の人間は一種の欠陥人間である。奇妙なことに、この欠陥人間が陸大出身者のような高位高官者に多かった」<以上引用>。文中に出てくるこのような「陸軍氏」のような人は、いまでも間々あちこちで見かけることができるが、このような「高位高官者」がエラそうな指導者づらを下げてふんぞり返り、一般国民に対しても君臨して、井の中の蛙よろしく世界を相手に戦っていたのだ。これでは、日本が勝つわけがなかった。
【それはさておき】
 戦争は圧倒的に大きな悲劇と無視できる程度の小さな喜劇を生む。武力を持つと、ちょうど子供が模型の戦車や爆撃機を持ったようにそれらの兵器を喜んでいじくり回し、事あれば戦争に突入したい戦争屋は、平成のいまの日本でも全く後を絶ったわけではないと評者は見ている。武力はいわば「伝家の宝刀」で、抜いてしまったらおしまいなのだ。いまの日本の政治家や官僚は、そこのところがわかっているのだろうか。三国一朗がインタビューした相手の「陸軍氏」みたいな指導者が、いまの平和の世の中で、例外であるといいのだが。□