tokyokidの書評・論評・日記

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書評・鼠

tokyokid2007-04-18

書評・★鼠(城山三郎著)文春文庫

【あらすじ】 
 全盛期の大正八・九年(一九一九・二〇)にかけて、三井・三菱と並ぶ大商社に成り上がった鈴木商店(本社・神戸)の実質上の支配者であった大番頭・金子直吉を中心とした鈴木商店の物語・ノンフィクション。金子は雅号を「白鼠」と称したので、題名はここからとられたのだろう。鈴木商店は日本有数の規模の会社に成り上がったところで「米の買占め」を実行したと噂され、当時のマスコミにも大々的に取り上げられ、大正七年(一九一八)の米騒動で焼打ち事件を起こされ、信用不安から昭和二年(一九二七)の金融恐慌でついに倒産に至る。そのように鈴木商店は倒産したが、いまに残る繊維の「帝人株式会社」、機械設備に強いといわれる商社の「日商(その後合併を繰り返して現在は双日株式会社)」、製鉄の「株式会社神戸製鋼所」、機械・造船の「石川島播磨重工業株式会社」そのほか、各界を代表するような大会社で鈴木商店を源流とする会社は多い。
【読みどころ】
 いまでも鈴木商店と聞けば、打てば響くが如くに「第一次世界大戦でしこたま儲け、その後米の買占めをしたので、怒った民衆に焼打ちされた挙句に倒産した当時の大商社」というイメージで語られることが多い。一方で鈴木商店は、家族的な団結を誇った「いい会社」であった、という関係者も跡を絶たない。私事で恐縮ながら、評者の高校時代の同級生であった某君(すでに物故者)も、大学卒業後某大商社に就職したが、就職当時「親父が鈴木商店に勤務していたので、その縁故による」と話してくれたことを思い出す。昭和二年(一九二七)八月一〇日愛知県に生まれ、企業小説という新分野を開拓し、「総会屋錦城」「小説日本銀行」「落日燃ゆ」などの作品で知られる、つい先日、平成十九年(二〇〇七)三月二十二日に亡くなった著者の城山三郎は、ふとしたことから鈴木商店のその「伝説」に疑問を持ち、調べていくうちに噂とは明らかに違う面を見せる鈴木商店の故事来歴とその経営者像を発見する。その過程がこのすぐれたノンフィクションを生み出した。
【ひとこと】
 評者もかつて企業社会に身を置いた者として、組織のあり方について考えることがある。会社も商店も官庁もみな組織体なのである。だが企業は、利益を出さなければ存在価値がない。しかし「儲ければいい」というものでもなかろう。その兼ね合いをどうつけるかは、企業経営者にとっての永遠の命題であろう。ここでとりあげた鈴木商店は典型的な私企業であった。明治維新によって日本に西欧の文物が入ってきて、鈴木商店は資本主義の最たる存在である「株式会社」のはしり、とはいえないまでも、セカンド・ランナー、サード・ランナーに当るくらいの位置は占めていた。法律上「会社」は「法人」といわれるように、会社を構成するのは複数の人間の集まりであっても、会社そのものは「法人格」を与えられ、法律上ひとつの「人格」を与えられる。自由主義、資本主義といえども、社会に生存していく以上、法律を守らなくてはならないのは個人の場合と同じである。つまり罪を犯してはならないのである。冒頭で述べたように、鈴木商店が「米の買占め」を行って日本国民を苦しめたのであって、その点で法律を犯す事実があったとすれば、法人格を持つ鈴木商店(に限らずいずれの企業体そのほかの組織体においても)は責任を取らなくてはならない。だがもしその事実がなくて、単なる噂話に尾鰭がついて、それを煽り立てるマスコミがあって、それだけの理由で「焼打ち」があって、その結果倒産に追い込まれた企業があったとしたら、その事実をどう判断すればいいのだろうか。また倒産してしまった以上、事態が元に戻ることは有り得ない。ならば「噂を広めた者」「噂を煽り立てた者」「焼打ちに走った者」は、被害者(この場合は鈴木商店)に対してどのように責任をとるのだろうか。
【それはさておき】
 著者は本書で、当時の大阪朝日新聞が「鈴木商店叩き」の先頭を走った事実を描く。「ペンは剣よりも強し」で、マスコミが絶大な権力を持つ者に対して、弱者の立場からもの申すのは当り前のことである。だが誤認に基づく報道や論評を、事実の確認も怠ったうえで、一般大衆に直接語りかける手段を持たない善意の第三者に浴びせかける、それも浴びせかけ続ける、というのはどういう魂胆だろうか。このあと朝日新聞を含む日本のマスコミは、軍部の暴走によって支那事変から第二次世界大戦へと突き進む為政者の提灯持ちとなって、日本始まって以来の敗戦という、国民を塗炭の苦しみに突き落とす事業の(まことに効果的な)手伝いをする。日本のマスコミのなかには、いまさらに国民の味方としての正義ヅラを下げて天下を論じる資格があるかどうか、真剣に考えてもらいたい当事者に溢れているが、少なくともこれからは同じ過失を犯して欲しくない。□