tokyokidの書評・論評・日記

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日記200501・チッカッキュッ

日記200501・チッカッキュッ

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 昔は日本にも方言が豊富にあった。典型的なのは、東京・上野駅にいけば東北弁や北海道弁がいくらでも聞けたし、東京駅では大声で話し合う薩摩弁を聴くことができた。それがどこに行っても平板な「エセ標準語」に日本全国ローラーをかけた如く統一されてしまったのは、戦後4,5年経った昭和251950)年ごろ、世に「街頭テレビ」なるものが普及し始めてからではなかったか。

 私が現代のテレビで使われる日本語(口語)を「エセ」と断じるのには根拠がある。こんな口語の日本語は、それまでどこでも使われていなかったからだ。一例を挙げれば、語尾をなんでも「ですます調」にする口語なんてなかったのだ。それまでの口語というのは、もっと闊達なものだったのだ。言い方を変えればもっと親しみを込めた血の通ったものだったのだ。それがいまは、噴飯ものなのは、市販されているDVDを見るとわかる。男女が「入れさせてもらっていいですか」「はい、でも痛くしないで下さい」なんて「ですます調の文語体」でやっているよ。これが房事行為中の男女の会話かよ。噴飯物の日本語でなくて、なんだというのだ。だがこれで戦後の日本語の変遷がわかる。

 戦時中、昭和181943)年夏から戦後の昭和211946)年2月まで、私が疎開した埼玉の奥の田舎では、地理的にはもう群馬が隣村だったようなところだったが、そこでは子供達がジャンケンポンのことを「チッカッキュッ」と掛け声をかけていた。当時勿論東京では「ジャンケンポン」であった。私は小学校低学年のこどもだったから、すぐ溶け込んで皆と遊んだ。戦後小学校5年生のときに帰京したときも、私の埼玉弁はわずか二週間で完全にもとの東京弁に戻った。そのころ「エセ標準語」はなかった。これは近くても遠くても、どこでも方言があった時代の話である。いまはこの地方のこどもらでも「チッカッキュッ」とは言わず、東京と同じ「ジャンケンポン」になってしまっているそうな。読者諸賢の出身地ではどうですか。□

(写真はネットから借用)

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