tokyokidの書評・論評・日記

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書評120613・万里子さんの旅

tokyokid2012-06-13

120609 書評・★万里子さんの旅(入江健二著・論創社刊)

★本書について
 副題に「ある帰米二世女性の居場所探し」とある。「帰米二世」とは、第二次世界大戦(太平洋戦争)前にアメリカに居住していたが、当時の日米間の不穏な情勢に影響されて日本に帰国した日本人移民の子弟(多くは未成年者)が、戦後再びアメリカ人としてアメリカに帰った(帰米)人のことを指す。
 この本の主人公の「大石万里子さん」は、大正十一(一九二二)年米国カリフォルニア州ストックトン市生れ。昭和二(一九二七)年、両親の故郷の福岡県八女市に帰国して継祖母の「タミばあちゃん」に預けられる。昭和十八(一九四三)年に結婚して満州に渡る。敗戦により死ぬ思いをしながら子供連れで満州から朝鮮を経て昭和二十一(一九四六)年日本・博多に復員。昭和三十六(一九六一)年帰米、という経歴の持主である。
 つまり万里子さんは大正生れで、アメリカ→日本→満州から北朝鮮の収容所→日本→アメリカの軌跡をたどった人だ。見ようによれば、万里子さんは自由の国アメリカから当時の軍国主義・日本に帰国し、さらに命の危険を冒して当時の日本領であった満洲に移住した。そのあと敗戦を機に逆の道を辿って日本経由でまたアメリカに帰ってきたわけだが、間違いないことは、万里子さんは日本の戦前・戦中・戦後の生き証人のひとりなのである。本書はその貴重な、というのはいまとなっては取り換えのきかない、当時の一般日本国民に課された苛酷な運命を、万里子さんという人の人生を通じて記した、稀有な記録である。

★著者について
 著者の入江健二氏は東京都出身の、現在はロスアンジェルスダウンタウンにあるリトル・トーキョーで開業する医師で、万里子さんの主治医である。この本のほかに「リトル東京入江診療所」「リトル東京で、ゆっくり診療十七年」などの著作がある。地元では「信頼のできる医者」として、主として日系人から絶大な支持を寄せられる名医である。
 なぜ著者は大石万里子さんを書く気になったか。本書の帯から以下引用する。
(以下引用)
 大石万里子さんは、89歳の現在も記憶力抜群で(そのお陰で私は本書を書くことができた)笑顔を絶やさない、美しい女性である。しなやかな彼女の生き方をなんとか描いてみたい、と私は思った。
 これを書きたいと思ったもう一つの動機は、万里子さんの生きた20世紀という時代にあった。この時代がどんなものだったか、21世紀にどういう宿題を残したかを、読者とともに振り返り考える、そんな物語を万里子さんの人生航路を軸に書いてみたかった。
(以上引用)

★【各章ごとの要約】
<プロローグ>
 著者と主人公・大石万里子さんとの出会いの風景と、この物語をつむぎたいという気持に著者が傾くまでの過程が簡単に描かれている。

【第一部】
<第1章・カリフォルニアの太陽の下で>
 著者は主人公の生れた土地、カリフォルニア州ストックトン市を主人公とともに訪れる。そこではさんさんと降り注ぐ太陽光線のもと、肥沃な農地が広がっていた。

<第2章・福岡県八女市福島町>
 日米開戦前夜の家族の慌ただしい動きと、万里子さんが父方の郷里の継祖母「タミばあちゃん」に預けられる。万里子さんが六歳のころのことだ。昭和十八年に結婚して満州に渡るまで、万里子さんはここで過す。

<第3章・結婚、そして満州へ>
 昭和十八(一九四三)年といえば、もう戦争のさなかのことだが、万里子さんは結婚して満洲の首都新京(現在の長春市)で家業の大石茶舗の若奥さんとして新生活をスタートさせる。束の間の幸福な新婚生活の記憶があった。やがて夫の光さんに赤紙がきて、兵役に召集される。そして敗戦。ここで私たち読者は、万里子さんの抜群の記憶力により、敗戦後の満洲における日本人の生活をかいま見ることができる。敗戦国民がつい数日前まで自国領であった土地に居なければならないということがどれほどのことであるか、身に沁みて理解できる場面である。

<第4章・母子、地獄からの脱出>
 敗戦後外地から日本に引き揚げてきたいわゆる「引揚者」の悲惨な物語は、あちこちで語り継がれているが、私たち読者はここでも主人公の万里子さんを軸にした当時の満洲や朝鮮の模様を知ることができる。この場面を読んでみると「筆舌に尽くし難い」というのがどんなに甘い形容であるか、「生死の境」というのがどんなに簡単に「死」の側に転ぶものなのか、そして本日ただいま「生きている」ことがどんな意味を持つのか、命を失くすか永らえるのかのはざまで、感じ取ることができる。
 評者がひとつ指摘したいのは、満洲・朝鮮の逃避行の話や記述に「ほかでは殺されたり強姦されたり、略奪されたりした話を聞いたが、私たちは幸運だった」というくだりによく行きあたることである。評者は決して万里子さんの記憶に疑問を持つものではないが、あえてこの命題を持ち出すことによって、じつは当時日本に逃げ帰る途中の日本人すべてが多かれ少なかれロシア人や中国人や朝鮮人から受けた迫害というものが、命を落とすか落とさないかの瀬戸際の事件の連続であっただろう、という推測である。換言すれば、落ちていく日本人の集団を見て、手を貸して助けてくれたり見て見ぬふりをしたりする現地人が居た半面、略奪の手を伸ばす現地人は、無抵抗な日本人集団を相手にさぞ無慈悲に略奪や殺人や強姦を働いたのだろうと強く推測するのである。

【第二部】
<第1章・親子が生きて行くためにー日本帰還後のたたかい>
 満洲から朝鮮経由で博多に着いた万里子さんは、こどもと共にまた福岡県八女市に戻る。シベリアに抑留されていた夫の光さんもあとから戻るが、病身だった。食うために、戦後の万里子さんの戦いが始まる。それは当時のほかの日本人のすべてがそうであったように、抜き差しならない、切羽つまった、食べるものを得るための女手ひとつの戦いであった。この間招集兵だった光さんのような者には、A級戦犯を含む職業軍人と違って、国家からの恩給や援護や給付が極端に少ない。死んでからあともなお軍隊の差別が残ることを、万里子さんは身をもって体験し、著者もそれを見逃さない。じつは評者の父親も同じく陸軍の招集組で、グアム島で戦死して上等兵のクチだが、家族は恩給などに関して同じ経験をしている。

<第2章・夫の闘病>
 やがて病身の夫は、家族を気遣いながらこの世を去る。

<第3章・渡米(帰米)への決心>
 戦後万里子さんは、アメリカ生れであれば、つまりアメリカ人であれば、またアメリカに渡る道があることを知人から知らされる。そして先の展望の見えない日本よりも、カリフォルニアに帰る決心をする。いつの世にも、情報は大切だ。

<第4章・親子の絆は海を渡って>
 万里子さんは二人の娘を連れて、当時は船でアメリカに帰った。昭和三十六(一九六一)年のことだった。手に職を持つ万里子さんは縫製の仕事をして、必死に生活費を稼いだ。親子は助け合ってアメリカの地で生きていくのであった。

<第5章・アメリカの大地で>
 縫製の腕が認められて、万里子さんはもっといい給料を払ってくれる新しい仕事についた。娘たちもだんだん大きくなった。高校生になると、長女はスクール・ガールの道を選んだ。他家に住み込んで雑用をこなす代わりに居住のスペースを与えられ、昼間は学校に通わせてもらえる、という当時のアメリカ独特のシステムである。自家用車も買うことができた。長女が結婚することにもなった。一九八五年万里子さんは最後の縫製の職場を退職。これが万里子さんの引退になった。翌一九八六年、万里子さんはダウンタウンのリトル・トーキョーにある日系高齢者用のアパート「東京タワー」に入居することになる。

<第6章・今が一番幸せ>
 そして万里子さんは「今が一番幸せ」と思える境地に到達する。

★【わたしの読後感】
 いきなり私ごとで恐縮だが、評者は敗戦の年小学校(当時は国民学校)四年生だった。したがってこの本に書いてある万里子さんの物語は、自分の戦前・戦中・戦後の体験と照らし合わせながら、もしかしたら自分の身にも起こったかも知れないこととして、体内に咀嚼することができる。でも戦後生れのいわゆる「戦争を知らない子供たち」に、この物語はどこまで理解されるだろうか。もちろん日本語がわかればこの本を読むことはできる。それなりに内容も理解するだろう。でもそこで彼らが理解することは、私ども戦中派が理解することと、本質的に違うのではないだろうか。つまり「燃え盛る火中」と「対岸の火事」との違いではないか、と評者は思ってしまうのである。
 この種の戦時体験をつづった著書は少なくない。古くは「きけわだつみの声」などもあり、枚挙にいとまがない。この本も、ある帰米二世の記録として、後世に語り継がれるだろう。国民全体が、生きるか死ぬかの線上にあった戦時中と、あの敗戦後の大混乱期の記憶とともに。そしてこの記憶は、私たちの世代がこの世を去ると、対岸の火事であっても眺めようとする人だけしか、かえりみることがなくなってしまうであろう。□