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日記180701・大田南畝と岸本水府

tokyokid2018-07-01

日記180701・大田南畝と岸本水
 読者諸賢は大田南畝と岸本水府をご存じだろうか。大田南畝寛延2・1749年生、文政6・1823年没)は江戸時代の狂歌詠みで、唐衣橘洲(からころもきっしゅう)・朱楽菅江(あけらかんこう)と共に狂歌三大家と呼ばれた人。岸本水府(明治25・1892年生、昭和40・1965年没)は川上三太郎、村田周魚、椙本紋太、麻生次郎、前田雀郎とともに川柳の昭和六大家と呼ばれる六人のうちの一人で、それぞれの分野で有名なお人、いや達人なのである。
 私がこの二人に親近感を持つ理由は、ふたりとも本業がありながら趣味の世界の狂歌と川柳で絶大な事績を残したことだ。その本業も、ふたりとも人の上に立つ仕事をした。江戸時代と大正・昭和の時代と分かれたが、要はふたりともサラリーマンだったのである。そこでも偉大な業績を残した偉い人たちだったのだ。
 大田南畝狂歌の世界においては蜀山人や四方赤良や花道つらねなどたくさんの別名を持つが、本職では天明期の江戸幕府御家人であった。江戸幕府の旗本といえば二百石以上のお目見得を指すが、ご家人はそれ以下のふつう将軍にお目通りを許されない下級武士であった。蜀山人は業務に頭角を現してのちに長崎奉行配下として長崎に転勤になったという説もあるくらいだから、とても有能な人であったのだろう。岸本水府は日本のサラリーマンのはしりとして広告の仕事で頭角を現した。福助足袋やグリコ、サントリーなどの当時の大会社に所属し、とくに福助足袋では広告部長に上り詰めた人であった。川柳の世界では、現在に残る「番傘」誌とその組織を全国規模に育て上げた人であった。二人の作をいくつかづつ挙げておこう。
蜀山人による狂歌
ひとつとりふたつとりては焼いて食ひ鶉なくなる深草の里(四方赤良)
生酔の礼者を見れば大道を横すぢかひに春は来にけり(四方赤良)
世の中は色と酒とが敵なりどふぞ敵にめぐりあいたい(四方赤良)
あなうなぎいづこの山のいもとせをさかれて後に身をこがすとは(四方赤良)
箱入の娘のとしはいくつぞと隣の宝かぞへてや見む(四方赤良)
たのしみは春の桜に秋の月夫婦中よく三度くふめし(花道つらね)
冥土より今にも迎い来たりなば九十九まで留守と断れ(四方赤良)
◆岸本水府自吟川柳
道頓堀の雨に別れて以来なり(岸本水府)
友だちはよいものと知る戎ばし(岸本水府)
大阪にすむうれしさの絵看板(岸本水府)
東京の中から江戸をみつけ出し(岸本水府)
カステラの紙も教えて子を育て(岸本水府)
十九からはたちへ女年をとり(岸本水府)
ぬぎすててうちが一番よいといふ(岸本水府)

 やはり偉人はなにをやらせても必ず頭角を現す人のようである。□
(写真はネットから借用)