tokyokidの書評・論評・日記

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日記150928・柳多留二五〇年

tokyokid2015-09-28

 今年は川柳の原点・柳多留が発刊されて二五〇年目の節目の年に当たる。では川柳の開祖・柄井川柳とはどんな人であったのか、私の書いた解説書から引用してみよう。

(1)120923 柄井川柳(からい・せんりゅう)
 川柳の開祖「柄井川柳」は一七一八(享保三)年江戸生れ。一七九〇(寛政二)年七三歳で没。幼名を勇之助、通称を八右衛門、戒名は契寿院川柳勇縁居士。菩提寺は東京浅草の龍宝寺。
 柄井川柳が生きた江戸時代中期はどういう時代であったか、ちょっと年表を覗いてみよう。

一七一七(享保二)年、大岡忠相(越前守)を江戸奉行に登用。将軍吉宗。
一七二〇(享保五)年、江戸町火消いろは組の創設。
一七二四(享保九)年、近松門左衛門七二歳で没。
一七三九(元文四)年、青木昆陽を登用して古文書を集めしむ。
一七四三(寛保三)年、甘藷(さつまいも)栽培を奨励。
一七四五(延享二)年、将軍家重。
一七五四(宝暦四)年、宝暦暦を採用。
・・・・・・・一七五七(宝暦七)年、柄井川柳は文芸の世界で初めて「前句附万句合」を世に出した。一七五七(宝暦七)年、四十歳のときのことであった。その選集・柳多留は十八世紀半ばから幕末までに一六七篇刊行された。・・・・・・・
一七五九(宝暦九)年、清水焼創始(音羽屋九郎兵衛)、雪中鴛鴦図(伊藤若冲)。
一七六〇(宝暦十)年、将軍家治。
一七六八(明和五)年、伊勢お蔭参り流行。
一七六九(明和六)年、賀茂真淵七三歳で没。
一七七二(安永元)年、田沼意次老中となる。
一七七六(安永五)年、雨月物語上田秋成)。池大雅五四歳で没。
一七八二(天明二)年、群書類従塙保己一)。
一七八三(天明三)〜八八年、天明の大飢饉
一七八六(天明六)年、将軍家斉。
一七八七(天明七)年、松平定信、老中筆頭となり倹約令を発す。同年「天明の打ちこわし」。米価騰貴し江戸・大阪の町人等騒乱す。

 ご覧のとおり柄井川柳が生きていたころ、江戸時代は元禄(一六八八〜一七〇三)の爛熟期を終ってはいたが、文学・美術等の分野では依然諸家の活動が活発な時代であった。その一方江戸はたびたび大火や飢饉に悩まされ、その結果世情も騒然としてきて、彼の晩年には田沼政治が敷かれることになる。そして彼が世を去った直後には、ロシアを始めとする列強諸国の日本開国の強訴の時期が始まるのである。こういう時代に生きながら、柄井川柳は文芸の世界で初めて「前句附万句合」を世に出した。一七五七(宝暦七)年、四十歳のときのことであった。
 文芸としての「川柳」は、創始者個人の名前の「柄井川柳」から取っているきわめて珍しい事例であることは、読者諸賢が既にご承知のことであろう。・・・・・・・

 そこで今年八月、川柳の聖書ともいえる「柳多留」の発刊二五〇年を記念して、大掛かりな展示会が行われた。この展示会のポスターと、過去の私のこのブログに掲載された「川柳に関する」書評関係の写真を掲げておく。私のブログ内検索に書名を入れてもらえば、簡単に過去の記事を読むことができる。いま川柳を作る人は全国で約百万人、毎月投句する人は約五万人といわれている。盛況といえよう。