tokyokidの書評・論評・日記

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コラム・わあしのアメリカ観察 8

tokyokid2011-11-24

法の精神

 日本とアメリカの法律は違う、と漠然と感じておられる方は多いと思う。どこがどう違うのだろうか。筆者は法律の専門家ではないので、専門家の目から見れば間違ったことをいうかも知れないが、そこはご免蒙ることにして、以下にその違いを私なりに分析してみよう。
 まず私たちが小学校のときに習ったように、民主主義国家は法つまり法律によって規定・運用されることになっており、立法、司法、行政のいわゆる三権分立が前提である。議会が立法、裁判所が司法、行政府が行政を担当する。法律を作るのは議会の役目だが、法律の運用の正否を判断するのはもちろん裁判所の担当である。
 問題はそのやり方で、そもそも法律というものは「大陸法」と「英米法」のふたつのタイプに大別されるそうだ。いまの日本の法律は、明治維新のときにドイツ・フランスの法律を手本にしてできたものを引き継いでいるから、ほんらい大陸法の系譜を引くものである。一方アメリカは、建国以来、その指導者の人脈によって、国の文化の端々に至るまで英国の色を濃く反映しているから、法律はこんにち英米法と呼ばれる、英国と類似の法律が施行されている。
 「大陸法」は別名「明文法」と呼ばれ、本質的に「法律に書いていないことは法律ではない」という立場だ。だから大陸法では、法の番人たる裁判所は、まず六法全書に書いてある法文によって一次的な判断をくだすことになる。
 これに対して「英米法」は「判例法」とも呼ばれ、過去の判例が裁判所の判断の一次的な基礎となる。もちろん英米両国にも法律そのものはいくらでも存在し、運用されるが、裁判所の判断は、まず同様の事件の裁判の前例つまり判例が基礎になるところが大陸法とは異なるという。裁判所の判断が拠って立つところが「明文=字句」なのか、それとも「判例=(字句そのものではなく)結論」なのかによって、以後の裁判は微妙に変わってくるであろうことは、法律の素人にも予測できることである。素人の筆者が大胆に言い切ってしまえば、明文法による結論のほうが、判例法による結論よりも、結論の範囲はより狭くなるだろう、ということだ。
 またこういうことも言えるのではないか。明文法は専門家の裁判官が担当して結論を決めるから、裁判のプロセスも結論も定型化し易い傾向にある。一方判例法では、まったく条件が同じ事件というものが存在しない限り、同種の事件の判例といっても結論を導くまでにどうしても幅を生じてしまうのではないか。法律には素人の陪審員を裁判に参加させることにより、その傾向に輪をかけることも予想できる。すると判例法によるほうが、(司法者たる裁判官の判断を越えて)時の権力者の恣意等によって左右される部分が多くなるのではないか。
 過去の刑事事件の事例でいえば、O・J・シンプソン事件や、服部剛丈君事件の(判例法による)結論を見ていると、どうもそういう気がしてならない。われら「明文法」国出身者としては、このところをよく理解して、アメリカで事に当たらねば、とんだ不利益を蒙ることになりかねない。誰か日本の法律の専門家に、このところを素人でもたやすく理解できるような解説書を書いてもらいたいものだ。□