tokyokidの書評・論評・日記

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コラム・わたしのアメリカ観察 7

tokyokid2011-11-15

日米「挨拶」の温度差
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 アメリカ人の挨拶は、なんと大げさなんだろう。久しぶりに会ったりすると、とたんに抱き合う。言えば「全身で喜びを表す」というようなものだ。いわゆる「ハグハグ」である。これは日本語でいうところの「久闊を叙する」なんてもんじゃない。ルイス・フロイスといえば十六世紀後半に日本に滞在したポルトガル人の(カトリック教)イエズス会司祭だが、彼が当時のローマ法王庁に提出した「日本覚書」のなかにも、「われら(ヨーロッパ人)においては、別れるときとか、外から帰ってくると、抱擁するのが習わしである。日本人はまったくそのようなことをせず、むしろ、そうするのを見ると笑う」と書いている(フロイスの日本覚書・松田毅一、ヨリッセン共著・中公新書)。それでなくてもアメリカ人は初対面のとき握手をする。いえば「握手」だってスキンシップだ。日常会っている相手にも、目を合わせれば必ず「ハウ・アー・ユー」と問いかける。日本語でいえば「どうしてる?」と言ったところだが、この返事の内容は判で押したように「良いと返事する」ことに決まっていて、たとえば「今日は胃が痛いんだ」とか「仕事と家事の両方でもう死にそう」などという返事は絶対に返ってこない。最初から返事の決まっている問い掛けなどしない、というのがわれら日本人のスタンスだが、アメリカ人は彼らの先祖がヨーロッパ人だった頃から、この儀式をあきもせず、宇宙時代のいまになっても続けている。そのくせアメリカ人は、満員電車などで赤の他人から身体に触れられることを極端に忌み嫌う。
 それに引き比べ、日本人の挨拶は淡白そのものだ。同じマンションの住人で、お互いにその事実を認識している間柄でも、玄関先などで出会ったときに目を合わせて「こんにちは」と言葉に出して挨拶するのは、いまでは丁寧な挨拶に属するそうで、握手はおろか、手を振ることすらしない。お互いにそっぽを向き合わなければ、それで別に喧嘩しているわけではないのだ。昔はこうではなかった。落語にでてくる熊さん八さんご隠居さんが、たとえ長屋の薄い壁を隔てているだけで隣の言動は手にとるごとくわかっている間柄であっても、朝おもてで会えば「おはよう」と挨拶したものだ。いつから日本人同士が挨拶をしなくなったのか、作家の阿川弘之氏は著作のなかでこう書いている。「客席のテーブルで食事が摂れるようになった若草色の美しいコーチ(列車の客車)に、日本人の若いカップルを見つけ、軽く会釈したが知らん顔をされた」(南蛮阿房列車新潮文庫)。この作品は昭和52年(一九七七)刊行で、つまりすでに四半世紀以上も前から、日本人の挨拶の行動様式は欧米人のハグハグはおろか、戦前の熊さん八さんの「おはよう」のレベルからさえもかけ離れていたのだ。これを淡白というか無礼というか、テレビ局に街頭アンケートでもとってもらいたいところだ。
 言葉が文化の根幹ならば、挨拶は人間関係の終始だろう。それさえも省略してしまうわが同胞のやり方がいいのか、それとも前史以来あきもせず抱擁を繰り返す欧米流がいいのか。わかっていることは、官民挙げてアメリカの後を追いかけることだけに夢中になっているいまの日本は、挨拶に限らず、近い将来全面的に日本文化を捨ててアメリカ文化に移行・同化せざるを得ない、という現実だろう。□
*この原稿は2004年に雑誌エルネオス誌に寄稿したものだが、記事に採用されたか否かについては、通知がなかったので、結果を知らない。