tokyokidの書評・論評・日記

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論評・EWJ「四字熟語」コラム・寸善尺魔

East-West Journal

(十三)「寸善尺魔」(すんぜんしゃくま)
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 善いことは「寸」の単位でしかこないのに、悪いことは「尺」の単位で押し寄せる、ということ。戦前から戦後にかけて日本の度量衡制度は商品市場ごとに漸次メートル法に切り替わっていったが、戦前の尺貫法では一尺(約30センチメートル)は一〇寸であった。世の中はとかく善いことは少なく、悪いことが多い、という意味である。出典は日本の「甲陽軍鑑」。甲陽軍鑑は一六二〇年ごろ成立した二〇巻もある軍書で、武田信玄・勝頼親子二代の合戦や軍法についての事跡を記した書物。
 ほんらい「寸善尺魔」は(世の中はいいことは少ししか起きなくてとかく悪いことが多く押し寄せるものだから)そのつもりで覚悟して日々の生活も切り詰め、余裕があれば貯金にまわして「尺魔」が襲ってきた場合に備えよ、という意味がついていたのだった。つまり「まさかの場合に備えて日々準備を怠らない」という裏の意味を含んでいた言葉であったが、高度経済成長を遂げた日本にあっては「日々是好日・日々是尺善」なのであって、来たるべき悪運に備えるためのこの言葉は死語になった。その証拠に「消費は美徳」となり、いまポケットにカネが入っていなくても、プラスチック・マネーを使うことでたいていのモノは「その場で」買えるようになった。つまり信用で前借りしても欲しいモノはすぐ手に入るようになったから、毎日が「尺善」のラッシュなのである。
 昔、といっても戦前までの日本人は「寸善尺魔」を信じて疑わなかったが、数多くの時代小説を書いた山本周五郎はこの言葉をうまく逆手に使った。短編「蕗問答」(新潮文庫・「やぶからし」所載)のなかで若き秋田藩士・寒森新九郎が藩主・佐竹義敦に向かって諫言する場面で、藩主に「縁組は急ぐに如かず、と申す。寸善尺魔ということもあるからな」と言わせている。つまり若い人に縁談が持ち上がったら(それはよい話なので・結婚を妨げるたくさんの)悪いことが起こる前にさっさと結婚してしまえ、と藩主は言ったのだ。また別の話で、寸善尺魔を自分の号に使った人がいる。この人は戦前カリフォルニアに居住していた明治維新前生まれの「鷲津尺魔」という人で、本名を文三といった。戦前アメリカに居住していた日本人は「排日移民法」や 「排日土地法」などに悩まされることになるが、当時の反日の色濃いアメリカにあって鷲津尺魔は独自の平等論・移民論を展開し続けた人である。こうした民族の困難に直面したときに敢然としてことに当たった人だったからこそ、自分の号に「尺魔」を用いたのであろう。戦前の在アメリカ日本人にとって、この頃の世相はまさしく「寸善尺魔」の連続であったに違いないのである。
 「寸善尺魔」の類語には「好事魔多し」「月に群雲、花に風」などがある。いずれも「善いことは少なく、悪いことは多い」「善いことのあとには、必ず悪いことが起こる」というニュアンスの言葉である。戦後半世紀以上の長期間にわたって日本は順風満帆、一九九〇年に経済バブルがはじけるまではひたすら経済高度成長の波に乗って走ってきた。だが経済でもなんでも、永遠に右肩上がりの成長ということはあり得ない。山あれば谷あり、かならずどこかで反動が起こるのである。人間は動物の一種であるから、かつて日本人もなみなみならぬ外敵に対する警戒心を持っていた。いまは日々平安が続いて、日本人は寸善尺魔ならぬ尺善寸魔の世相に狎れてしまい、警戒心が薄れてしまった。この状態で「尺魔」が襲ってきたらどうなるか、立ち止まって考えるべきだろう。□