tokyokidの書評・論評・日記

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論評・EWJ「四字熟語」コラム・君子豹変

tokyokid2011-06-09

(八)「君子豹変」(くんしひょうへん)
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 もともと「君子豹変」とは「君子は過去の悪い行いを素早く改める」という善意の意味であったが、昨今はむしろ「一般の男子」を「君子」と隠喩し、その君子が「変わり身早く悪いほうに変わる」の意味で用いることが多い。「君子」は人格や教養の面で優れた人格者のことで、紳士のこと。「豹変」は豹の皮のまだら模様が急変するさまから、態度が急に変わること。出典は易経
つまり「君子は自分の過失に気付けばただちに心を正しく行いを改め、きれいに振舞うものだ」という「善いほうに変わる」というのが「君子豹変」のもとの意味であった。それがそこいらへんにいくらでも居る「ただの人」を「君子」に例えるようになったころから君子という言葉のインフレ現象が起こって使用法が逆転し、「どうせあいつは君子なんだから、豹変して当り前なんだよ」と「悪いほうに変わる」場合に用いるようになった。そしていまでは「君子豹変」を使う場合は、ほとんど全部といってもいいくらい、後者の「悪いほうに変わる」場合を指すのが圧倒的になってしまった。
 「君子」を辞書で引くと本来は「立派な人格と教養をそなえた人」「人格者」「高い地位にある人」など、要するに善い意味での紳士を指す言葉なのだ(旺文社・国語辞典)。だが用法には「梁上の君子」などともともとの意味とは似ても似つかない使われ方をすることがある。「梁上」とは建物の「梁(はり)の上」のことで、夜、梁の上にいる男といえば盗賊に決まっているから、この場合「梁上の君子」は「君子」づけで呼ばれていても、これはとてもまともな意味での君子ではないことは誰にでもわかる。つまり一種の隠喩であるが、「隠喩」とは修辞法の一種で直接「こうだ」とはいわず、たとえだけでいう修辞法だと、これも同じ辞書に書いてある。だがこういう用法がまかり通ると、本来善い意味であった「君子」も「君子豹変」も意味が逆転してしまい、悪い意味に変ってしまったのだ。
 こう世の中のスピードが上がってくると、人はみなうかうかしてはいられない。今日の友は明日の敵、今日の正義は明日の悪である。すると目の前の現象だけで自分の行動を決めている人は、状況の変化に従って自分の言うことも変えざるを得ない。「どうせ君子は豹変するよ」と悪いほうの意味で使用されるゆえんである。自分の所信を持ち、その所信にしたがって行動していれば本来の意味の「君子」ではあろうが現代を生き抜くことに関してはまことにやりにくい。ならばたとえ不本意であっても、人は誰でも悪い意味での「君子豹変」をむねとして生きていかざるを得ないのではないか。いま本来の君子たらんとしている者にとっては、この世はこのように生き難い時代なのである。
 サラリーマンなら誰しも、いや、サラリーマンでなくても世の中を渡っていれば、誰でもいちどは自分の上司や目上に当たる人が仕事上のことで最初は「ああだ」と言っていたのが状況の変化に連れて「こうだ」の意見に変ってしまい、そうなるといままで自分がその上司の言うことを信じて行動してきたことすべてがホゴ同然となるので呆然となった覚えがあるのではないか。そして同僚を誘って飲み屋に直行し、その上司の悪口三昧を肴にして同僚と口論した挙句飲みつぶれてしまったことがあるのではないか。そしてつい「どうせ君子は豹変するもんだよ」と口走ったのではないか。本居宣長だったか「炬燵で豆を噛み噛み他人の悪口をいうのは最上の娯楽」だと喝破しているくらいだから、上司の悪口を言うことは江戸時代から変わらぬ庶民の娯楽であったと見える。□