tokyokidの書評・論評・日記

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論評・EWJ[四字熟語」コラム・自業自得

tokyokid2011-07-09

(十二)「自業自得」(じごうじとく)
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 自分がやったことは自分で責任を負わねばならないこと。自分の実行した業(ごう)によって、自分がその報いを得なければならないということ。「自得」の「得」は、利益を表す「トク」ではなく、「報いを得る」意味の「得」であることに注意する必要がある。人はいったん行為を起こしてしまえば、「報い」が良かろうと悪かろうと、それを「得」なければならないのだ。「自業自得」というこの言葉は、ふつう「悪い結果」を引き受けねばならない場合に用いることが多い。出典は仏教の「正法念経」。類語としては身から出た錆、自分が蒔いた種、因果応報、自縄自縛などとある。これらの類語(の意味)をみても、自業自得とは結果が悪い場合に使う言葉であることがわかる。
 漢和辞典で「業」を引いてみる。漢音が「ギョウ」、呉音が「ゴウ」とある。もとの意味は「飾り板」「文字を書く板」などから転じて「仕事の意」に用いるとある。なるほど「事業」「生業」「業績」など仕事の意味としてよく使う。あと「技芸」「因縁」などの意味もある。つまり「わざ」「しわざ」などだ。「得」はもともと(通貨を意味する)貝を手にしたさまで、財貨をえる意味だとある。なるほど。だから意味としてはえる、うるなどのほかに、獲得する、むさぼる、ひとりじめにする、などの意味もある。さらに適切さをえられる意味のかなう、能力がある意味のあたう、つごうがよくもうけをえるトクの意味があることはもちろんだ。これらの解釈から察するに、自業自得とは本来自分のしたことの結果を得る、という意味から、「業」を「しわざ」つまり因縁めいた悪い行為に局限することによって、主として結果も悪い場合に使う用法・言葉に変化していったことが想像できる。(漢和中辞典・旺文社)
 「自業自得」が自分の行為とその結果だとすれば、自由主義の世の中では、自分がなにをやっても結果を引き受けさえすればいいのだ、と考えるヤカラが輩出しても不思議はない。でもそれは違う。なぜなら「自分の行為」は「自分で責任を負える範囲」であることが「自業」と「自得」の用法上の暗黙の前提だからだ。たとえば自分がやりたいから、小学校に入り込んで罪もない小学生をメッタ切りにして何人も殺してしまうなどという行為は、その結果はとても自分の手で負えるほどのことではないので、この犯人が死罪に問われたとしても、本来自業自得の範囲に入らない。もっと重いのだ。こういう行為は「天を恐れぬ所業」とでもいうより仕方なく、死刑になったからといって「自業自得」では済ませられない。でもいま「自業自得」の意味をこのように厳密に解釈する人は少数派だろう。
 言い換えると、「業」を「自分が責任を負える範囲で選択した仕事の内容」ととらえ、結果の「得」を「その仕事によってもたらされた結果」というのが本来の「漢字のもとの意味に基づく厳しい」解釈だ。それを「自業自得は自分がやったことだから、結果がどうなっても受け入れるしか仕方がない」という「漢字のもとの意味にかかわらず、現在の解釈で理解するという本来の意味からするととてつもなく軽い」方向に変っていくのも、世の流れなのだ。「自業自得」とその類語がどれほどの頻度で現在実際に使われているか、試みにインターネットの google で検索してみた。「自業自得」は十三万六千件、「因果応報」が四万四千件、「自縄自縛」が九千件でてきた。現在の世の中は、この順序でこれらの類語を認識・使用しているわけだ。でもその認識と使用の仕方は、本来の意味からするとごく軽い解釈に変化してしまっていることもまた事実なのだ。□