tokyokidの書評・論評・日記

tokyokid の書評・論評・日記などの記事を、主題に対する主観を明らかにしつつ、奥行きに富んだ内容のブログにしたい。

論評・EWJ「四字熟語」コラム・大器晩成

tokyokid2011-08-08

(十六)「大器晩成」(たいきばんせい)
*   *   *   *   *
 大物として大成する人は(若いときはそれとわからないものだが)ある程度齢をとってから最後に大きな仕事を成し遂げるということ。大器の「器」は「うつわ」でその人となりを意味し、晩成の「晩」は「おそい」の意味から(若いときではなく)人生もおそくなってから、の意味。出典は「老子」。
 字句通りの解釈は上述のとおりであるが、この言葉の用法としては、いま不遇で恵まれない立場にいる人に対して「現在はまだ大きな仕事をする時期に到っていないが、とかく大器は晩成するものだから、時節を待てば君も大人物になれるよ」と相手を慰めるために使う場合が多い。「大きい薬缶は沸きが遅い」も同じ意味。反語としては「十で神童、二十で才子、二五になりゃタダの人」がある。これには異説があって「十で神童、十五で才子、二十過ぎればタダの人」というのもある。実際はどうか。
 江戸時代・徳川二五〇年の幕閣のうち、幕末近くになって「切れ者」と評判された阿部伊勢守正弘(一八一九〜五七)がいた。脇腹で備後・福山の藩主だったが子供のときから俊敏にして寛容、「粋を解する」麒麟児として知られ、若くして幕閣に登用され、幕府の奏者番寺社奉行からたった二五歳の若年にして老中に登りつめた。わずか三八年の生涯であったが、その治世中にアメリカのペリー提督、ロシアのプチャーチンらが来航して開国を要求したときに老中首座として前水戸藩主・徳川斉昭薩摩藩主・島津斉彬らの大先輩をまとめて外交問題を諮問・衆議にかける体制を築いたといわれる。阿部正弘がこどものときからいかに聡明であったか、次のような逸話が残っている。正弘が六歳のときに家臣のところで興味深げに金魚を見ていた。その家臣は正弘に金魚を差し上げると言ったが、正弘は気の毒に思って当初もらおうとは言わなかった。再三勧められて結局もらうことになったが、父親から「もらったからには返礼をせねばならぬ」と言われて、即刻菓子箪笥と半紙をその家臣に贈った。あとで父親から「なぜそのような品物を贈ったのか」と問われて正弘は「彼は酒を飲まないので菓子箪笥を与えます。また書道をよくすると聞いていますので半紙を与えます」と答えて父親を驚かせたという(江戸から東京へ・矢川挿雲著・中公文庫)。正弘はたった六歳にしてかくも聡明であったということだ。
 人生五〇年の江戸時代に、夭折ともいえる三八歳で生涯を閉じた阿部正弘のこのような事跡を知れば、「大器晩成」という言葉はシッポを巻いて逃げるのではないか。いま日本人の平均寿命は世界最長の男七八歳、女八五歳といわれるが、現在の三八歳が日本開闢以来の欧米列強の外圧に立ち向かった阿部正弘の真似ができるか、考えるまでもない。いまの日本では、せいぜいIT事業で稼いだ経営者が、身の丈何倍かのラジオ・テレビ局の会社を外資からカネを借りて買い占めるくらいであろう。それでも世の中はこの経営者を麒麟児とは見ずに異端者としてしか評価しない現状をみれば、人生五〇年が人生八〇年になったいま、人生が長くなった分だけ日本人の成長も遅れたということができるのではないか。その結果いまの六八歳は江戸時代の阿部正弘の三八歳に相当するのがやっとだ、と言えそうだ。「大器晩成」などとは、事実の描写であるよりは、(麒麟児とはとても言えないところの)他人に対して気休めに使う社交辞令と定義すべきなのだろう。□