tokyokidの書評・論評・日記

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論評・EWJ「四字熟語」コラム・温故知新

tokyokid2011-05-07

(五)「温故知新」(おんこちしん)
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 故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る、ということ。言えばこの「四字熟語」シリーズの目的そのものである。出典は「論語・為政」。有名な孔子の教えで、いまでも各種の記事の随所に見ることができる。岩波文庫の「論語」(金谷治訳注)に当たってみると、原文は「子曰、温故而知新、可以為師矣、」となっている。訳としては「先生(孔子)の言われるには、古いことを理解し新しいことも知っておけば、教師(教える立場)にもなれるであろう」ということ。つまり「古い歴史や先人の業績などを反復して学習し、そのなかに含まれる本質的な価値や現代に通用する新しい意味を見つけ出して日常的な評価を加えることができてはじめて教師たり得る」ということをこの四字熟語は意味しているものと思われる。いまこの言葉を聞いて内心忸怩たる思いをしない者ばかりではなかろう。
 戦後日本はアメリカの濃厚な影響下に入って一般的な意味での価値観が一変してしまったとは、一部の識者がよく指摘するところだ。いまではアメリカと日本はまったく同一の価値観で動いている部分を多く見出すことができる。たとえば「新製品」に関するものの見方がそうで、極端にいえば「新しい」というだけのことに最大の価値観を与える人が最近増えたように思われる。その結果「新しければいいものだ」という本来倒錯した考え方に到達してしまっているとしたらこれは問題だ。なぜならこのような解釈は得てして「古いものは取るに足らない」という誤った認識に通じるからである。実際には「古くても」良いものや良い考え方はいくらでもあり、その事実を知らずして「良いもの」「良い考え」を新規に開発しようとすれば、せっかくの先人の智恵や業績を無視して、むざむざしなくても済む無駄な努力を繰り返すことになるからでもある。
 結論からいえば、故事来歴を知らないで新しいことに突入していくことは無駄が多いばかりか間違った結論に導かれる確率も高くなるであろう。だからこそ「古きをたずねて」「新しきも知る」ことが肝要なのである。本来儒教思想に貫かれた戦前の日本社会の若年者は、年配者の述べるところをよく聞いて、自分の行動の指針としたものだった。それが高度経済成長時代を経て日本の国が経済的な豊かさを実現してしまったいまでは、世代間の会話はほとんど無きに等しくなってしまった。これでは若年者が温故知新を実践する場がない。いまでは小学校高学年の女子生徒が同級生の首をカッターナイフで深く切りつけて殺してしまう事件や同種の事件が続発する社会になってしまったが、これは親が子に対して「人を殺すことは悪いことであり、してはならないこと」「ナイフは他人に向けるものではないこと」「自分が他人にすることは、同じことを他人が自分に対してすることを容認することに限る」など世の中の基本的なルールを幼児のときから繰り返し教え込んでおけば、この種の事件は起きなかったはずだ。戦前派の私たちは、小学校のとき自分の筆箱に肥後守(鉛筆削り用の折畳式切り出しナイフ)が入ってなかった者はいなかったと思うが、それでケンカのときに(親に言われてナイフを持ち出すのは禁じ手だったから)肥後守を持ち出す者はいなかった。
 なお「論語」は孔子(前五五一〜四七九、中国春秋時代末期の思想家)の死後、弟子たちが編集した言行録であるといわれる。いまから二千五百年も前の人の言ったことから現代に通用する意味を汲み取ることができるならば、これぞ「温故知新」なのではあるまいか。□