tokyokidの書評・論評・日記

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論評・磁針コラム・「リテラシー」?

tokyokid2008-10-20

論評・「リテラシー」?【羅府新報・081009付磁針コラム掲載原稿】
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 朝日新聞国際版・科学欄(二〇〇八年七月二五日付)に「科学リテラシーを磨け」の大見出しが躍っていた。そしてさすがに「リテラシー」では解らない読者がいると思ったのか、見出しの次の要約文で「リテラシー(理解力)」の注記があった。だが「リテラシー」とは「理解力」だろうか?「読解力」ではないのか?日本語の「理解」と「読解」は同じ意味だろうか?だいたい「リテラシー」など使用頻度の低い英語の単語を、そのままカタカナ表記の日本語として通用させること自体に無理があるのでは?なぜ最初から「理解力」と日本語にしないのか?
 ここで問題にしたいのは、日本語の将来についてである。同じ時期に文化庁の07年度「国語に関する世論調査」の記事が同じ新聞に載っていて、それには「憮然」「檄を飛ばす」を本来とは違う意味で使う人が7割を超える、と書いてあった。本来「憮然」の意味は「失望してぼんやりしている様子」であって7割の人が解釈する「腹を立てている様子」とは違い、また「檄を飛ばす」は「自分の考えを広く他人に知らせること」で同じく7割の解釈の「元気のない者を活気づけること」ではないはずだ。ほかにも女子大生の多くが「鬼籍に入る」を「長男の嫁になること」(正しくは亡くなること)と解釈しているとか、筆者自身の経験でも男女の大学生が「はばかり」(便所)という日本語の単語を誰も知らないという現実など、この種の例は枚挙に遑(いとま)がない。でも言葉の誤用も一般的かつ継続的になれば、やがて本来誤った用法が正しい用法として認められるようになることは、歴史の示すとおりであろう。
 これらの事例から日本語の乱れを指摘するのはやさしい。だが問題は、本来の英語の意味とは違う意味で英語単語をそのままカタカナ語として使えば当然意味が通らなくなる事実であり、また日本語であっても本来の意味と違う意味で使う日本人が(7割を超える)多数派になってしまえばこれまた本来の言葉の意味が通らなくなる、ということだろう。
 筆者の予測を言えば、上記に加えて敬語用法の乱れなどの現象により、日本語はあと半世紀を出ずしてもはやものごとを正確に簡潔に伝える適当な国語たり得ず、いちいちその意味・真意を解説・釈明しなくてはならないような、ごく曖昧模糊とした言葉になってしまうだろう、ということだ。□
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