tokyokidの書評・論評・日記

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論評・EWJ「四字熟語」コラム・採薪之憂

tokyokid2011-07-01

(十一)「採薪之憂」(さいしんのゆう)
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 病気か、事故か、老衰か、ともかく自分の身体が自分で動かせなくなり、日常の煮炊きに使う薪を山に取りに行けなくなる心配を言う。使い方としては、自分の病気などの障害を、相手にへりくだって、謙遜の言葉として言うこと。出典は「孟子」公孫丑。
 「私には採薪之憂があるのですよ」といえば、私には病気などの原因があって山に薪を取りにいくことができず、つまりはもはや稼ぐこともできず、日常の煮炊きが満足にできない状態にあります、ということを間接的に言っていることになる。このように直接ものごとを描写せず、ほかのことを言うことによってものごとを表すのは間接的な表現である。間接的な表現は豊富な言葉を持つ人間独特の表現方法で、たとえばカラスがこの話法を用いて愛の告白をする、などということは考えられない。言葉をたくさんもつ人間ならでは、の用法である。これを「面白い」ととるか、「面倒くさい」ととるかは、その時その人の心理状態や「言の葉を多くその人の知識にたくわえてあるか、またたくわえた言の葉をその人に使いこなす能力があるか」などの状態による。
 漢文の素養がなければ文化人として認められなかった江戸時代以前においては、この種の四字熟語を使ってものごとを間接的な表現で表すのがすなわちその人の教養を表すことでもあった。明治維新後も、そのことはある程度日本の社会に根付いていた習慣ということができよう。昭和二十年(一九四五)の敗戦以降、進駐軍マッカーサー司令部の命令により、漢字が大幅に制限されて当用(常用)漢字のみの使用が強制されたり、旧かなづかいが新かなづかいに改められるなどして、日本語は質的に大幅な変化を余儀なくされた。その結果四字熟語を含んで漢文の素養は不要不急の教養科目となり、高校の教科からも「漢文」が割愛されるに至った。もともと漢文つまり中国語で使う漢字はそのひとつひとつに意味がある表意文字だが、その意味を無視して「音(おん)」や「字画」だけで漢字を判断する用法が戦後の日本社会に定着してきた。その結果たとえば自分の子の命名に珍なる例を見出すことができる。たとえば「腥」という名前だ。この漢字は「生臭い」という意味だが、この字を子どもの名につけたいと要望した親は「月」と「星」が並んでロマンチックな名前だからという。でも「腥」の左側の「月へん」は、空に浮かぶ月ではなく「にくづき」で、肉体の部分を表す。「胸」「腰」「腹」「腕」「脚」などをみれば一目瞭然であろう。それが月と星が並ぶ漢字だからロマンチックだという感覚は、従来の漢字の意味を知らないか、または漢字使用のルールを無視するかのいずれかによるものと思われる。ちなみに「腥」の文字は人名漢字として親から採用を要望された文字ではあったが、さすがに二〇〇四年八月の人名漢字追加四八八字には含まれていなかった。
 最近は日本語も英語に似てきて、なにごとも直接明快に言うようになった。ほんとうは英語にも間接的な表現はいくらでもあるが、英語に熟達しない人にとっては、その実例を思い浮かべるだけでも容易ではない。それで映画やテレビのアクション場面などで使われる短絡的・直接的な英語が耳に入って、それらの直訳的日本語が頻繁に使われるようになった、のだろう。これはもともと個人主義的な色彩の強い西欧文化によって集団主義的な日本文化が影響を受けたというよりは、それよりもはるかに浅い次元での単なるモノマネの影響だろうと思われるところが、少し悲しい。□