tokyokidの書評・論評・日記

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書評・漢和中辞典

tokyokid2007-09-23

書評・漢和中辞典・旺文社(赤塚忠・阿部吉雄編)

【漢和中辞典とは】
 漢和辞典は、漢字の辞典である。漢字は英語のような表音語とは異なり、ひとつひとつの漢字が意味を持っている表意語であるから、漢字の辞書は欠かせない。それで国語辞典とはまた別の漢和辞典が必要となる。日本では、最初漢字を使って文などを表した。考古学の研究であちこちの古墳から発掘される木簡などに書いてあるし、奈良時代に成立したといわれる、現存する最古の詩集として知られる万葉集も、漢字を使って音訓を表したいわゆる「万葉仮名」で書かれた。あとになって「ひらがな」「カタカナ」が普及するのだが、これは多分日本民族が成し遂げた最初の特筆すべき大発明と言えるだろう。このおかげで、意味のある漢字を使って、音で表す不便を解消することができた。これがどんなに意味があったことか、現在でも「コカ・コーラ」を「可口可楽」と苦心の末に表記する中国語を見てみれば、その差が歴然とする。本書評に用いた旺文社の漢和中辞典は1万1千字を収録、と書いてある。また巻末に漢字に関する事項、漢詩や中国の古典、また平がな、片かなの起源から暦、行書、草書に至るまで親切な付録をつけてある。余談ながら、常用漢字が2千字、人名用漢字が別に1千字というのは、2千年の歴史ある日本語を過不足なく表すにはおおいに不足、と強調しておきたい。
【あるべきよう】
 漢字の辞書であるから、漢字を羅列してその意味を解説してある。だが漢和辞典も国語辞典と同様に、使いやすくかつ読みやすくなければならない。また漢字は昔の中国の「漢」の字であるから、漢籍(中国の本)を離れて、日本語として使う「漢字」は、取り扱いによほど注意を払う必要があるだろう。そこで漢の字を日本で使うために、漢和辞典があるのだが、漢籍の意味を明確に伝え、かつ日本語での用法の解説にも手を抜けないという、漢和辞典は大変な使命を帯びた辞書なのである。ひとことで言えば、中国でどのように使われている漢字が、日本に入ってどのように使われているか、それを明らかにしてあれば、いい漢和辞典といえるのではないか。
【使ってみれば】 
 数多くの漢字を、秩序を立てて並べてみせるには、画数が基準となる。日本人はこどものときから、漢字の書き順を習うのは、そのゆえである。もっともいまでは、無秩序な訓みが蔓延して、本来漢字が持つ意味も薄れてしまった。でも画数と部首による漢和辞典の構成は、漢字の辞書としてはこの方法によるしかないのであり、実際に使ってみれば、これはこれで大変便利なのである。漢和辞典では、まず漢字の訓みが必要な場合は「漢音」と「呉音」に分けて記載してあり、さらに「解字」でその漢字の持つ意味、「異体字」などのあとにその漢字を使う言葉の意味つまり本来の辞書部分が書いてある。知っているつもりの漢字でも、漢和辞典を読めば、知らない意味や用法がつぎつぎと出てきて、自分の知識を増やすことができる。尾籠な話ながら、用を足す場所に常備しておくのは、漢和辞典に限る。部首の頁だけでも、繰り返し読んで倦きることがない。
【それはさておき】
 最近はたった2千字の常用漢字(だけ)に頼るようになった日本語は、だんだんその深味を失っていくように思われる。ちょっとモノを書くと、編集者からなるべく「かな表記」を用いるように言われるし、またかな表記でないと、いまの読者はついていけない、つまりは読まなくなってしまうのであろう。漢字も本来の意味から離れて、日本語独自の用法がされるようになる。たとえば「サンズイ」は「水」、「ニスイ」は「気体」と漢字では使い分けがなされているはずなのに、文部科学省は「涼しい」と「サンズイ」にしている。仄聞するところによると、これは小学生がしばしば間違えるので、もともと「ニスイ」の「凉」を「サンズイ」の「涼」に変えたというのだが、こんなことがあってもいいのだろうか。それでは小学生が間違えれば「冷凍」も「サンズイ」にせねばならないだろし、そのあたりの行政の考え方はどうなっているのか、とても疑問に思う。□