tokyokidの書評・論評・日記

tokyokid の書評・論評・日記などの記事を、主題に対する主観を明らかにしつつ、奥行きに富んだ内容のブログにしたい。

日記120416・日本語あれこれ

tokyokid2012-04-16

日記120308・日本語あれこれ


(1) 読売新聞の編集手帳欄に興味ある記事が載った。いわく・・・・・
戦前、国語の浄化を目的にした詩人の団体がつくられ、佐藤春夫も会員に名を連ねた。永井荷風は日記に書いている。〈佐藤春夫の詩が国語を浄化する力ありとは滑稽至極といふべし…〉(岩波文庫断腸亭日乗』より)◆時は流れて戦後、佐藤が選考委員を務める芥川賞石原慎太郎氏『太陽の季節』が受賞した。佐藤は選評に書いている。〈この作者の美的節度の欠如を見て最も嫌悪を禁じ得なかった〉◆さらに時は流れて今、石原氏が芥川賞の選考委員を降りた。〈今の作家は時代を反映していない〉〈昔は新人賞の作品は面白かったけど、全体に(レベルが)下がってきたかな〉(本紙のインタビューに答えて)◆退任した石原氏(79)と黒井千次氏(79)に代わって、奥泉光(56)、堀江敏幸(48)の両氏が新たに加わり、芥川賞の選考委員は全員が戦後生まれになるという。どういう“原石”が掘り出されるか、楽しみに待つとしよう◆荷風は佐藤を嗤(わら)い、佐藤は石原氏に眉をひそめ、石原氏は当節の若手作家に失望を隠さない。才能とはいつの世も、先輩たちの苦言と渋面のなかで磨かれていくものなのだろう。(2012年2月22日付読売新聞・編集手帳


(2)この記事を読んだ在米日本人の女性が言った。いわく・・・・・
もし貴方が物を書くことがお好きなら、
もし貴方が少しでも日本語に興味があるなら、
この記事を読んで、
それぞれが、それぞれにお感じになることがあるでしょう。
自分は大丈夫、
あれ自分の日本語はいいのかなあ、
もっとしっかり覚えなきゃなぁ、
もっと言葉の美、を捉えられるように、
見る角度、考える角度をどうやって広げられるのか、
いろいろ考えさせられる記事だと思います。

言葉は生き物、言葉は柔軟性をいっぱいに持ったものです、
(日本語って特にそうですよね)
温故知新をいっぱい持っているものです、
大切に日本語を扱わねば、とこの年になると思います。

昔父が言いました、
『お前はまったく字を知らん!』
そりゃそうでしょう、
2000人以上いる会社の中で、私は字が読めないと、父ともう一人副業でお習字の先生をやっている人のところに聞きにいった。
それはそれは字にうるさい、うんざりするくらい字にウルサイ、親父でした。
又言ってるなあ、ウルセイナア、右から聞いて左に流していました。
『いいよ、そんなに知らなくたってこれで十分!』
そう言っていた私、何しろ極楽トンボな私でした。
努力だとか勉強する、なんていうのとは無縁な私でした、
それがアメリカに来ました。
いまはコンピューターで字を書いている生活です。
ますますナアーンにも解らなくなって来ています。

母は『書』の好きな、なかなかの字を書く人でした。
(父の字はミミズが這ってる字、でした。父の書いた字を読むのは至難の業でした。夫婦って面白いものですね)
でも母は、字はそう知らない、と言ってました(といったって昔の人ですから結構知ってはいましたがね)。
そんな家に育ちました。
私といえば、習字は苦手、漢字も苦手、親にとって頭の痛い子です。
ある日帰国したとき母に言われました。
『あなたは子供の中で一番筆まめ、これは私に似ないでホッとしているわ。でもね、最近の貴女の手紙の字ね、音は合ってるけど、ぜんぜん意味違いの当て字を書いてくるわよ』
『エーッ!母さんに言われるようじゃもう駄目ってこと?』とがっかりしてから・・・・・
又又・・・・ン十年か経過し、今になりました。
もう駄目です。地に落ちたっきりです。

その私がです。
感じるんです。
字を知らない若者多いよナーーーー・・・・・・って。
おかしな、話です。


(3) これらを読んだ在日日本人の男性が言った。いわく・・・・・
文章・漢字に関して自分は「まず」大丈夫。
どうして大丈夫かというと、私はカネを取る、または取れる文章や漢字を書かないから。
タダならなにを書いても書き手の勝手。
カネはもらわず、もらえず、言うことがわかってもらえばそれでよい。
そのための、それなりの文章を書いていればいいのですよ。
問題はいま、テレビのアナウンサーや新聞記者や作家など、言葉や文章や漢字で食っているプロの連中の日本語がなっちゃないこと。
佐藤春夫同様、選考委員だった阿川弘之氏が、同じことを言って降板したのは何年前のことだったか。
いまでは私みたいなアマチュアにも指摘されるようなプロの間違いが至るところで見られるようになってきた。
そうじゃありませんか?
いまは全国の公立高校から漢文の授業がなくなってしまったのですよ。
子曰、朝聞道、夕死可矣。
子曰く、朝(あした)に道を聞きては、夕べに死すとも可なり。
こんなこともやらなくなっちゃった。
それでいま学校でなにを教育しているのかね。
国民が論語を読まなくなって久しい。
素読もやらなくなって久しい。
子供が意味もわからずに漢文を暗誦しても意味ないということか。
でもこれをやっておけば、大人になって言葉の深い意味がわかってくる。
漢字も覚える。
そんなテマヒマかける親も教師も、そして本人も居なくなった。
やがてこどもは非行に走るか引きこもるか他人を傷つけるか。
髪を金色に染めるか、シャツの裾をだらしなくズボンの外にだすか、ぶかぶかのジーンズでテメエの尻の割れ目を他人の目にさらすか。
ムダなことはやるが、必要で大事なことはやらなくなった。
テレビを見ればどれもこれも、昔のカンカン踊りを大勢でやってるだけだ。
閑話休題
常用漢字もわずか二千字。
そしてお上の間違いだらけのかなづかい、当て字。
「古希」なんてアリか?
杜甫が「人生七十、古来稀なり」と言ったから「古稀」ではなかったか?
お国のお上である文科省が率先してこういう間違いを国民に強制している。
役人は責任を取らないのが商売だから、強制はしていない・指導しているだけだ、と言い張るだろう。でもお上のいうことだから、同じことだ。
「白洲」「白州」も同じ。江戸時代の罪人の事情聴取を行う場を「おしらす」といって「白洲」と書いた。いまではこの字をきちんと書く小学生は、先生からバッテンをもらって満点をもらえなくなってしまった(知人の孫)。
白州「はくしゅう」って、なんだ?
酒の銘柄か?
まさか白洲のことじゃないよね。
時代劇の作家・池波正太郎(一九九〇・平成二年没)でさえ、文中で白洲と白州をごっちゃに使ってる(もしかして編集部のミスかも?)。
これで中国四千年の歴史がある漢字を正しく使えというのは、中学生にオリンピックで勝ってこい、というに等しい。
聞けばいまの大学では、九九が言えなかったり分数計算ができなかったり、英語の筆記体が書けなかったりする大学生が珍しくないとか。
彼らは当然「古希」「白州」で済ませるだろう。
それだって読めて書ければ、いまは立派なものなのだ。
プロは「常に自分を磨く」自覚を持たなければ、毎月25日に給料もらう資格はないと思うが、アマは通じればいいのですよ。
あとは程度の問題です。
これがこの問題に対する私の見解。


(4) さて、読者諸賢は日本語の乱れについて、どのような意見をお持ちだろうか。□
*写真は広辞苑表紙(ただし広辞苑が完璧な辞書だと言っているわけではありませんぞ。売れている辞書だから日本語の代表として取り上げただけ)。