tokyokidの書評・論評・日記

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論評・EWJ「四字熟語」コラム・巧言令色

tokyokid2011-06-28

(十)「巧言令色」(こうげんれいしょく)
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 他人の顔色をみて口でうまく言いつくろい、衣裳やちょっとした動作を「色なおし」してまで、その人に取り入ろうとする人は、真心に欠ける、という意味。出典は「論語」学而。原典では「巧言令色、鮮矣仁」(巧言令色、すくなし仁)となっており、「巧言」は字句どおり「巧みに言う、口先でうまく言う」こと。「令色」の「色」は口で言うこと以外のものを指し、「令」は「令(よ)く」で「よくみせる」の意味だから、「とりつくろえる」ものなら衣裳でも動作でも贈り物でもなんでもいいわけだ。「鮮」は「少」で「少ない」、「矣」は「・・・である」、「仁」は「親しみ」「慈しみ」のことで「儒教で説く最高の徳」という(旺文社・漢和中辞典)。つまり論語は「巧言令色の人は仁が少ないよ」と言っている。「巧言令色」は、日本が戦後の混乱期を脱して、誰の目にも経済成長が明らかになって以後、死語同様となった。
 昭和三九年(一九六四)に東京オリンピックが開かれた時期までは、日本の社会には戦前の風習が色濃く残っていたが、そのあとは一転してそれまでの地味な庶民の生活習慣であった「惜福(せきふく)の工夫(くふう)」「欲しがりません、勝つまでは」から一八〇度の大転換を遂げて、「消費は美徳」「欲しいものは借金しても買う」というように変ってしまった。そうなれば自分の欲望を満たすために大きくカネを稼がざるを得ず、そのためには上役や有力者に取り入るための手段として「巧言令色」を活用する人が増えた。世の中で「巧言令色」派が多数派となれば、これはもう社会一般の風潮がそうなったのであって、ことさらに「巧言令色」と言い募(つの)る人がいれば、そのほうがおかしいという評価になり、したがって「巧言令色」なる「こびへつらってまでうまくやろうとするヤツ」を批判する文言は使われにくくなった、したがって死語同様になった、のであろう。
 同様に戦前の「無言実行」も死語になった。いまは日本人の男も女も、アメリカ人なみによくしゃべる。いや、しゃべらなければ相手に通じないのだ。それも「有言実行」ならばまだ信用もできるが、言うことだけは言っても「・・・みたいな」「・・・とか」の連発で、都合が悪くなれば「べつに・・・」と、とかく自分の選択範囲をせばめることを嫌う。それだけならまだしも、責任をとろうとしない。問題はすべて先送り、責任をとるのは愚の骨頂、なのである。「巧言令色」の反語は「誠心誠意」「剛毅朴訥」などだが、これらの言葉はもう宣伝のチラシで見かけるほかはあまり実物を見る機会はなくなった。少なくとも新聞の三面記事ではそうだ。同じく反語の「賢者は語らず」「忠言耳に逆らう」なども、語らなければ賢者ではなくなってしまった社会では、賢者であろうと愚者であろうと語らなければならないのであり、同様に耳に逆らう忠言など(バカなことを)する人もいなくなったのである。
 昔は地方・都会を問わず、どこへ行っても油紙に火がついたようにしゃべりまくる男なぞというものは、日本では信用されない存在だった。いまではテレビなどで、首相や議員候補が出演する直前に化粧をして見た目をよくし、読み上げる原稿を練りに練って万人の耳に快く響きかつ相手党から突っ込まれないような演説をする。そういう者が「いい」首相や議員である時代になってしまったのであり、それがまたなんとも思われない時代なのである。逆にいえば、そういうことをいちいち気にしなくてもいい、誰が首相や議員になっても代わり映えのしない、豊かな社会になったということでもあろう。それでも「巧言令色」の意味を会得している人こそ真の紳士・淑女なのである。□