tokyokidの書評・論評・日記

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論評・EWJ「四字熟語」コラム・起承転結

tokyokid2011-05-31

(七)「起承転結」(きしょうてんけつ)
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 文章を上手に書くにはこの順で内容をまとめるといい、という一種の文章作法。もともと漢詩の構成からきている。「起」は起こす、つまり始まりの文句で起章。「承」は受ける、承ける、でさらに内容の説明を続ける第二句の場面。「転」はがらりと変えて内容に変化をもたせる第三句。「結」は結論の終章。これを漢詩の「照鏡見白髪」張九齢で説明してみよう。五言絶句は五字×四行のたった二〇字で一句をなす。つまり各行がそれぞれ起承転結なのである。本文は「宿昔青雲志/蹉跎白髪年/誰知明鏡裏/形影自相憐」。これだけだ。私訳は「昔(の若いころ)は青雲の志があったが/いつの間にか白髪の年になってしまった/鏡の裏を知っている者が誰かいるか/そこでは(自分の)形と影がお互いに憐れんでいるのじゃよ」。蛇足ながら「青雲の志」とは立派な人になろうというこころざし・考え。「蹉跎」とは躓き、つまずいて事が思うように運ばないさま。この詩についていえば、分かりやすく、美しく、詩の構成もよく、きれいに韻を踏んでいる(年、憐)いい詩である。
 私が学校で「起承転結」を習ったのはたしか中学二年生のときであった。先生は長い髪をうしろに垂らした、見るからに文学青年といった感じのN先生であった。先生は起承転結の例として、頼山陽の詩をわれわれに教えてくださった。「京都三条糸屋の娘、姉は十六妹は十五、諸国大名は弓矢で殺す、糸屋の娘は目で殺す」。なるほど。ちょうど思春期で少年から青年になりつつあったわれわれには、漢詩よりこっちのほうが身に即してよっぽど分かりやすかった。なにしろ日本語だからな。もうひとつ、作家の池波正太郎は「鬼平犯科帳」「仕掛人・藤枝梅安」「剣客商売」などの時代小説作家として有名な人だが、この人も小説を書くときには四〇〇字詰原稿用紙の最初の一枚で読者の興味を引かなければならない、と言っている。要するに文章の入口であとの内容に関して読者の興味を惹き起こすことに成功しないとその小説は成功しない、ということだろう。
 普通の学生や社会人でも作文をしなければならないケースは山ほどある。私信から始まって学校や勤務先に提出するレポートや、報告書や、メモのたぐいである。短いメモなどは新聞の見出しを手本にして要点だけを書けばいいが、ちょっと内容のあることだったら、やはり文章作法に気を配らなくてはならない。中味が文学的である必要はなく、たとえば技術解説書などであっても、読む人が特別な努力を必要とせず、ずっと読み下して内容を容易に理解できる書き方がなされている必要がある。そのために文章は平明でありながら内容にメリハリをつけて、文の山と谷の文脈をそれなりに整えて、一種のリズムをとりながら読者の頭にすらすらと入っていくような工夫をせねばならない。「起」の部分に工夫を凝らすのは当然としても、そのあとの「承」「転」「結」もそれぞれ工夫を凝らし、さらに文章全体の結構も考えたほうがいい。そうして考えてみると、たとえばカタログなどにもこの起承転結を応用することができることに気がつく。カタログこそは読者の興味を引かなければ意味をなさないものだし、売り込もうとしている製品なりサービスなりがただ羅列してあればいい、というものでもない。でも実際にはその手のカタログをあちこちで見かけることも事実なのである。
 よい文章を書こうと思ったら、表現に関しては起承転結と文章それ自体の分かりやすさを考えて作文すればいいのだろう。だがそれは「言うに易くして、行うは難し」なのである。□