tokyokidの書評・論評・日記

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書評・海軍主計大尉小泉信吉

tokyokid2007-06-06

書評・★海軍主計大尉小泉信吉(小泉信三著)文春文庫

【あらすじ】
主人公の小泉信吉は慶応義塾大学を卒業して、三菱銀行に4個月勤務したあと海軍軍人となって1年2個月、父母と祖母と妹2人を残して戦死、と本書の冒頭にある。戦死公報によれば、昭和十七年(一九四二)十月二十二日、南太平洋方面に於いて名誉の戦死ということで、当時海軍主計中尉であった。著者は主人公信吉の父親、小泉信三である。信三は明治二十一(一八八八)年生れ、昭和四十一年(一九六六)没。経済学博士で、のちに慶応義塾・塾長を務めた。形の上で本書は、生き残った父親による戦死した息子の追憶の書であるが、もともと公開を予定していなかった私家版の原稿であったという。上記の状況から、もしも本書に予想される父親の嘆き・悲しみという記述を期待する向きがあるとすれば、それは大きな期待外れに終る。信三の筆は終始一貫して冷静であり、乱れがまったく見られない。理想的な戦前の良家の父子のありようは、かくの如くであったか、と読者をして襟を正させる端正な文章である。
【読みどころ】
本書の内容は、目次によると、「本文」と「後記」の2項目のみである。だが長い本文中に出征した信吉から家族に宛てた手紙が何通も引用・収録してあり、著者がその前後に当時の状況を書き入れている。内容は家族の消息から戦況から世事の動きに至るまでの広範囲にわたる。これを評者なりに三分すると、「信吉の生い立ちにも言及した前編」「出征中の信吉の手紙およびその内容に関するコメントの中編」「信吉の最後の手紙が家族に届けられてからの戦況推移などを含むコメントの後編」に分類できるのではないかと思われる。小泉家はまぎれもなく当時の日本の知識階級を代表する家庭であり、また著者自身明治維新期の偉大なる先人であった慶応義塾創始者福沢諭吉から直接謦咳に接した人であったであろうところから、英国に関しては充分以上の知識と理解があったはずで、だからこそ本書全編から英国貴族階級の「ノブレス・オブリージェ」つまり「貴人の責務」に類する考え方を感ずることができる。もちろん小泉信三自身は爵位を持っていたわけではなかったが、それでも貴族の責任を理解し、実践した崇高な精神の持主であった、といえるだろう。だからこそ信吉は、その影響のもとに、範を英国海軍に取ったといわれる、戦前の日本帝国海軍に志願したのではなかったか。日本海軍で理想的なネイビー(海軍軍人)といわれて、文中にも引用されている「スマートで目先が利いて几帳面、負けじ魂これぞ船乗り」の歌が、期せずしてその間の事情をわれわれ読者に語りかけてくる。
【ひとこと】
人間は生まれながらにして自由・平等である、という考え方があるが、この世の社会生活に於いては、やはり出自がモノを言う場面が多々ある。世間の指導的な立場に立つ人は、同じ子息を戦争で失ったとしても、時の有力者から三顧の礼をもって処遇されるのである。この戦争で戦死した軍人は、何百万と数えられると思うが、そのすべてが、家族ともども小泉家のように当時の社会的な指導者の立場にある人々から丁重に遇されたかといえば、そうではないだろう。戦前の身分制度が残っていたころは、(いいか悪いかは別として)身分の上下によって待遇も厳格に異なっていたのだ。下の者は、上の者が身分相応の振舞いをしたかどうかを見極めて、上の者が得た待遇がその人の働きにふさわしいものであったかどうかについて評価することができた。評者が言いたいことは、戦後アメリカによる民主主義が日本にも導入されて、すべての国民は自由であり平等になった。その結果世の指導者に求められるところの「ノブレス・オブレージェ」がもし消滅したとすれば、この世のヤミ、と言わざるを得ない。平時はそれでもなんとか凌げるだろうが、たとえば外国から軍事力を発揮されて攻められるなどの非常時になったとき、日本国民はいったいどのように事態に対処するのか、またできるのか、そのとき誰が指導力を発揮するのか、非常に考えさせられる問題を戦後抱え込んでしまったのである。本書を読むと、そのことについて考え込まざるを得ない。
【それはさておき】
著者の小泉信三が、いかにも学者らしい端正な人柄であっただろうことは、本書の題名を見ただけで想像がつく。いうまでもなく「海軍主計大尉・小泉信吉」とは、本人または身内の者たちの正式な名乗りなのである。職名を頭にして、氏名をあとに書くのは、その表れである。他人がその人を敬して呼ぶときは、これとは順序を逆にして、氏名を先に言い、職名を後につけるのが、正式な敬語の使い方とされている。この場合は「小泉大尉」と呼べば、呼んだ人は対象を敬して呼んだことになる。これが正しい敬語の用法なのだ。したがって、戦時中に本人が、自分でたとえば「東条英機陸軍大将」と揮毫書などに自署してあるとすれば、それは自分で自分に敬語を使ったことになり、まことに可笑しなことである。これは誤った語法である。当時の陸軍将官は、よほど自分たちを偉いと思い込んでいたのか、東条大将だけではなく、ほかにもたくさんの将官が同じ誤用を犯している。でも平成の現在では、犯罪容疑者にまで「・・・・の方」と敬語で伝えるのが当然になってしまったから、敬語のあり方も昔とは断然変ってしまった。いまから半世紀以上前の戦時中ですら、こうした誤用をする将官が少なくなかったことを思えば、日本語はすでに戦前から古来の用法を正確に伝えていなかったことになるのだろう。さらに、この文庫本の装丁はとてもすばらしいので、一言したい。端正な明朝の活字体を使って、左側紺の木綿地には主人公の信吉の名、切り裂かれた境の先、右側には白地に赤で著者の信三の名があり、戦争に引き裂かれた父子の内容を映して過不足がない。すばらしいデザインのひとことに尽きる。「カバー栃折久美子」とあるから女性の装丁だが、この人はよほど力のある人であるに違いない。最後に私事ながら、評者は昭和十九年(一九四四)四月五日「慶応義塾長・小泉信三」発行の、小学校3年生(当時は国民学校慶応義塾幼稚舎)のときの、写真・割印つきの身分証明書No.二四七を交付されて、それをいまだに手許に保存していることを、ひそかな誇りとしていることを付け加える。□