tokyokidの書評・論評・日記

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論評・EWJ「四字熟語」コラム・合従連衡

tokyokid2011-05-26

(六)「合従連衡」(がっしょうれんこう)
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強敵に対抗するために権謀術数を使って作り上げる戦略や戦術のひとつ。出典は「史記孟子。漢和辞典を引くと「従」は「たて。特に中国の諸国を南北に連ねる線」とあり、「縦」と同じともある(漢和中辞典・旺文社)。また「衡」は「牛が人を突かぬように角にしばりつける横木の意」とあり、「横」を指す(同)。直訳すれば「縦(南北)に合流し、横(東西)に連合すること」。
春秋時代の終わりに「七雄」と呼ばれる秦・趙・魏・韓・燕・斉・楚があった。戦国時代のことであるから、これら七雄はおのおの天下を狙うわけだが、そのなかでは秦が飛び抜けて強い。そこで他の六国はそれぞれの一国だけでは秦に勝てないので南北にまたがる六国が同盟を作って秦に対抗しようとする。これが「合従」である。ところが当然のことながら六国は利害相反する場面があり、この同盟は長続きせず、こんどは秦を中心に全七国を巻き込んで東西に連衡を図って成功した。だが秦以外の六国はやはり秦の下風に立つことを潔しとせず、間もなくこの連衡もこわれてしまう。位置関係からいうと、秦はいちばん西に在り、その他の六国は秦からみて東側に南北に散開して存在していた。「合従連衡」といえば連想する言葉が「権謀術数」であり、この言葉の基となった合従の仕掛人蘇秦と連衡の仕掛人張儀は「策士」と形容されることが多い。歴史の教えるところによれば、合従が前三三三年、連衡が前三一一年のことで、いまから二千三百年あまり前のことである。
面白いことに、西暦前のこの時期にも南北は縦であり、東西は横であったということだ。現在の地図作成上の約束ごとは、北を上に描く、ということだが、筆者は寡聞にしてこの取り決めがいついかなる過程で作られたものか知らない。でも当時の中国では現在と同じ考え方が存在していたのだ。ついでながらこのあと前二二一年に秦は初めて中国を統一し、これまた初めての皇帝「始皇帝」が即位する。中国のことを英語で「チャイナ」というが、この語源はじつに「秦」であった。戦前日本での呼称であった「支那」を広辞苑で引くと「秦の転訛、外国人の中国に対する呼称。初めインドの仏典に現われ、わが国では江戸中期以来第二次世界大戦まで用いられた」とある。つまり「支那」もやはり「秦」からきている言葉なのである。いま我々は使い慣れた「支那」を使わず「中国」を使うよう強制されているが、これはなぜか。記憶によれば戦後戦勝国の中国が敗戦国の日本に自国の呼称を「中国」とするよう半ば命令があり、日本はそれを受け入れて現在の形になった。そのように要求した中国の理由は「支那は蔑名であるから」ということであったと思うが、自国の国語を他国の横槍によって簡単に変更するような国の信頼性は極めて低いと言わざるを得ない。なぜ日本人だけが歴史的にも正統である本来の支那という言葉を使えないのか理解に苦しむ。
現在「合従連衡」という言葉は、政党間や派閥間、また企業の離合集散などを描写する場合によく使われる。つまり政権獲得や強者に対抗する目的を持った弱者連合などの手段として使われることが多いのだが、基本的にはこれらの派閥なり企業なりは自己の利害得失をもつから、もし同盟行為よりも自己の利益を優先させる者がいるとその同盟は長続きしないのである。結局人の世の問題は人に帰着する。合従連衡であろうと独立自尊であろうと、上に立つ者が卓越していれば卓越した結果を得ることができるし、そうでなければそうでない結果がもたらされるだけなのだ。□