tokyokidの書評・論評・日記

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日記191001・五百年に一度の日本語大変革

日記191001・五百年に一度の日本語大変革

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 ある説によると、現在は5百年にいちどの日本語の大変革時期に当るそうだ。まづ戦後の日本語の大変化がある。それまでは何万字とあった漢字をたった二千字程度にまで少なくしてしまった。いわゆる「当用漢字・常用漢字」のことである。これで日本語の日常使われる語彙がぐんと減った。つまりその分だけ豊穣だった日本語が痩せた。その上に「書き換え」である。もうひとつ、略字化の横行である。たとえば「蟲」を「虫」と変えるなどはまだ罪のないほうである。つまり「文部省・文科省」という一役所の木っ端役人どもが、私たちが平生使う日本語を際限なく制限に乗り出してきたのだ。結果は知れている。「日本語の改悪」であった。ほかにも発音どおりの表記ということで、「てふてふ」が「ちょうちょ」になったのは、はっきりと現代日本語をいわゆる古文の日本語から切り離してしまった。この罪は重い。おかげで、たとえば明治期欧米から輸入された美しい旋律に当時の美しい日本語の歌詞をつけた歌が、現代人に意味が通らなくなったばかりに歌われなくなってしまった。「庭の千草」や「仰げば尊し」をみてみればよくわかる。その結果それらの美しい旋律と一緒に美しい陰影に満ちた綺麗な日本語が見事に消えてしまった。残ったのはガサツで底の浅い日本語ばかりとなった。

 いまどきの日本語を見てみるがいい。戦前の総ルビを振った旧字を知っている世代にとっては見るに堪えない日本語になってしまった。日本語の豊饒さがまったく失われてしまった。「ヤバイ」「ウザイ」「キモイ」「カキコ」「スレ主」など、見慣れない汚い日本語のオンパレードである。もっと面白い若者語は、このブログ内検索欄に「若者語」と入れて検索なさればいい。いくらでもでてくる。それに責任逃れの一般化に伴う無責任日本語、つまり言い切ることを避ける用字・用法のオンパレードである。最近は「・・・してもらっていいですか」など意味不明の、それでいて当の本人は自分なりの敬語を一所懸命使っているらしい奇妙な日本語がはびこる世の中となった。

 いまの教科書に往事の名文家たちの文章は出てこない。★漢文も漱石露伴鴎外も消えて書けない読めない日本語(謝)・・・なのだ。なんと情ない体たらくではないか。さらに言えば、最近の名ある辞書でも、増える一方の若者語を集録するに熱心なあまり、初用例から30年も経たないのにもう新語として掲載してしまう見識のなさである。このあたり専門家の意見を求めるならば「お言葉ですが・高島俊男著・文春文庫」が最適であろう。日本語に興味があるあなたにおすすめの一冊、いや全部で10冊あまりの労作であったか。つらつら考えるに、これを五百年に一度の日本語の変革と呼ぶのはまことに当を得ている。2019年のいまから500年前といえば1519年、戦国時代であって、その前の室町や鎌倉の時代とは時代そのものが大きく転換した時代だった。戦後アメリカに占領された影響が色濃く残るいまの時代と共通する社会現象がある。そう思って見れば、この無秩序かつ無定見な役所主導の日本語変革が理解しやすいのかも知れない。分かりやすい例として駿府城の写真を掲げておく。言うまでもなく、この城は徳川家康を代表する城だ。だが明治維新政府は腹いせに、この美しい城を完膚なきまでに景観破壊してしまった。いまの日本語は、現在の駿府城になぞらえることができる。

 最後に役所はいかにデタラメな仕事をするか、ひとつだけ例を挙げておこう。「涼しい」の字である。本来この字はサンズイではなくニスイであった。正しくは「凉」なのである。それはそうだろう。気体はニスイで液体はサンズイと決まったものだ。それを「小学生が間違えるから」という理由にもならない理不尽な理由で慣用を曲げてしまったのが文部省だったのだ。国民を暗きに導く役所。なにをかいわんや。□

(写真はネットから借用)

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