tokyokidの書評・論評・日記

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書評・不実な美女か貞淑な醜女か

tokyokid2007-09-06

書評・★不実な美女か貞淑な醜女か(米原万理著)新潮文庫

【あらすじ】
 ロシア語の同時通訳者として名を馳せ、先年若くして物故した米原万理の「通訳者・翻訳者」としての体験から、翻訳作業を考察した好著である。当地アメリカに駐在したことのある日本企業人であれば、誰しもが本社のエライサンの訪米に「通訳」として狩り出された経験がおありだろう。そのときの記憶を呼び覚ましながら本書を読むのもまた一興であろう。目次は「プロローグ・通訳=売春婦論の顛末」「第一章・通訳翻訳は同じ穴の狢か・通訳と翻訳に共通する三大特徴」「第二章・狸と狢以上の違い・通訳と翻訳の間に横たわる巨大な溝」「第三章・不実な美女か貞淑な醜女か」「第四章・初めに文脈ありき」「第五章・コミュニケーションという名の神に仕えて」「エピローグ・頂上のない登山」から成る。通訳者・翻訳者の職業上の痛切な悩みが聞こえてくる内容であることを、目次を一読するだけで察することができる。外国育ちの著者が日本人離れしているところは、記述の随所にユーモアの配置を忘れていないことである。
【読みどころ】
「いい翻訳とはなにか」を徹底的に追求したのが本書である。この問題は、前述のエライサンの通訳に狩り出された経験を持つ人なら、誰しもが抱く疑問であろう。評者の場合は、後述するように外国語(この場合は英語)に堪能ではなかったから、ここまで悩む必要もなかった。閑話休題。本書のハイライトは、エライサンの母国語による発言を、通訳者がどのように外国語(米原万理の場合はロシア語、評者の場合は英語)に言い換えるのか、その苦心談と考察である。その前段としての通訳者の当該外国語に関する知識・経験についても充分に語られており、素人段階でありながら狩り出されてエライサンの通訳を務めなくてはならなかった評者のような現地駐在員の共感を呼ぶのである。さらに本書は後半部分で意訳・誤訳の問題にも鋭く踏み込んでおり、前半の「不実な美女」つまり「多少もとの発言と意味が異なっても現地の人にわかる翻訳をすべきか」、それとも「貞淑な醜女」つまり「忠実に言われたことをそのまま外国語に移し替えるだけでいいのか」の、翻訳者にとって悩ましい部分を詳述してある。
【ひとこと】
 第五章の5に、「英語で演説したがる総理大臣」という記述がある。外国に行って、自分が英語に堪能なところを見せたいがために英語で演説をしたがる政治家を戒めているくだりである。著者は「外国語で意思疎通をはかろうとするときに、自己の知的水準にはるかに及ばない、外国語による表現力との落差にしばし愕然とした経験をお持ちだろうか」と問い掛け、結論として「一国を代表する権限を持ってそれをするのはやめてほしい」と結ぶ。一国の代表の発言は、通訳に任せるべき、という趣旨であるが、これはあとから訂正を加えなくてはならない場面を想定しても、まことにご尤もなことである。評者は日本にはこうした危機管理のイロハも無視して自分の好みで業務を遂行しようとする政治家が存在することを初めて切実に認識した。このようにしても、通訳者の実力不足から世紀の誤訳といわれる事例が、戦後の日米関係だけでも数え切れないほどあるのだろう。すべては官僚の事勿れ主義によって、明らかにされない部分も含めての話ではあるのだが。一国の進路を誤ることがあるのだから、げに政治家の無智はおそろしい。日本人の妻を持ち、日本語に堪能だった元駐日アメリカ大使だったライシャワーが、公式の席では必ず通訳を介して発言した故事を思い出させる。
【それはさておき】
 この問題に関する評者の立場を、以前ある機関誌に発表したコラムを代入することによって、明らかにしておく。以下は引用文である。(一部用語を変更した)
★SELDAA会誌「卒業生便り」原稿(2003年3月7日号)
題名:「身すぎ世すぎの英語でも・・・」
 同窓生の井上ひさしさんが「モッキンポット師の後始末」生活を送っていた頃、私たちは外国語学部英語科(“学科”ではなかった)で、刈田先生や野口先生、青木先生や千葉先生に英語をしごかれていた。楽しみは・春の桜に・秋の月・・ではなく、外人教授のメイスン先生、バリー先生、グラチアノ先生、レーニー先生などナマの英語の時間が楽しみであった。文学部と違って外国語学部は、英語を道具として使おうというヤカラが大半であったと思うが、かく申す私も英語は身すぎ世すぎの手段として認識していたのであって、間違っても英文学者になろうなどとは思ってもいなかった。
 大学ではナマの英語を教えてもらえたから、当時としてはめずらしく、われわれには外人アレルギーがまったくなかった。だからアメリカでも英国でも欧州でも、英語が通じさえすればなんとかなる、という変な自信みたいなものが身についていて、ま、それが国際人というものではないだろうか。私の定義によれば、地球上どこへ行ってもなんとか生活ができる、というのが国際人なのだと思う。
 昭和3x年(19xx)にめでたく卒業証書をいただいて社会人になった。機械・電子部品のメーカーでその後約40年を過ごして7年前にお役御免となった。以降いまに至るまで外国生活は累計約21年にわたる。日本にいるときも英語とは縁が切れなかったから、文字通り「身すぎ世すぎ」に役立つ英語を教えてくれた大学には感謝のほかはない。おかげさまで家族を飢えさせることもなく、企業人をつとめあげることができた。現役最後の勤務地がシカゴであったから、そのままアメリカに居座ることにした。日本の社会が「和」つまり「他人に気配り」の世界だとすれば、アメリカは全国民がおのおの最大限に自分のハッピネスを追求する国であるから、(物価の安さと相俟って)老後を過ごすのにこれほど快適な国もない。常夏の南カリフォルニアともなれば腰痛もちの私にはなおさらのことである。それで引退後の家内との生活は、たまの訪日に際して;
● 楽しみはホフマン館の先生達、バリー・グラチに笑う友どち。
というわけだ。もちろんいまでもマックのハンバーガーを買うのに英語で苦労することはない。(以上引用)
【蛇足】
 本書では、題名を含めて「醜女」を「ブス」と読ませるべくルビを振っている。意味は同じでも「醜女」は「しこめ」と本来の日本語の読み方をすべきだ。「しこめ」または「しゅうじょ」が死語となって久しく、これは現代の日本人には意味が通らなくなったことによる苦肉の策だとは思うが、こうして「英語の白黒の差重視つまりデジタル思考による言語」と「程度の差つまりニュアンスを重視するアナログ思考の日本語」の差は鮮明であり、こうして「美しい日本語」は滅びてゆく。□