tokyokidの書評・論評・日記

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書評・ガラスのうさぎ

tokyokid2007-08-01

書評・★ガラスのうさぎ高木敏子著)金の星社

【あらすじ】
 第二次世界大戦(日本では大東亜戦争、太平洋戦争ともいう)に日本が負けた昭和二十年(一九四五)に、東京の本所区(いまの墨田区)両国に住んでいた小学校六年生(当時は国民学校、以下同じ)・十二歳の少女だった著者が、戦争によって(残った一人の兄を除いて)つぎつぎに全部の家族を失っていく物語。家業はガラス工芸品工場であったが、のちに陸軍の指定工場となり、血沈管や注射器を製造していた、ごくふつうの日本国民の一家であった。題名は、著者が大空襲にあった自分の家の焼け跡から拾い上げた、戦火で半分熔けてしまった自家製のガラスの兎の置物からとられた。これはもちろん実際にあった話であり、著者の高木敏子氏の学齢時に起こった、平和な平成の現代に住むわれわれには到底起こり得ない、現在の平和な生活からは想像もつかない異常な戦争体験を描いた自叙伝でもあり、亡くなった家族への鎮魂の書でもあり、なにより戦争が起これば一般の家庭がどうなるかを示す歴史の書でもある。
【読みどころ】
 日本はもう半世紀以上も(建前上)戦争による死者をひとりも出さないできた歴史をもつ。ところが戦争で殺したり殺されたりした経験を持つ人も、平成十九年(二〇〇七)の現在まだ生きていることも事実なのである。だが人間は悲しい動物で、去る者は日々に疎し、歴史上の事実であっても終ってしまったことは人間の記憶から遠くなってしまう。遠くならないまでも、記憶違いや勘違いも起こり得よう。いまから六十年以上前の経験は、たとえそれが本人にとってどんなに苛酷なものであっても、平和時の日常の生活からは日々遠ざかるから、記憶もやはり遠ざかってしまうのである。その点本書の著者は女性であるから、日常茶飯事に目が行き届き、生活の場面場面での詳細な人物の動きや、感情の推移なども豊かに書き残して遺漏がない。戦争の現実の場面場面を、子どもの目からみて記録した文学そのものが稀有であるだけに、そしてまた、現実に起こった悲劇の描写が冷静になされていることが、本書の価値を極限にまで高めている原因であろう。
【ひとこと】
 当時の日本国民は、直接的であれ間接的であれ、また程度の差こそあれ、戦争の被害を蒙らなかった者はなかった。本書に出てくるのは、主として米軍の空襲による被害の話であるが、居住地で地上戦が行われた沖縄や、住んでいる市民を十万人の単位で無差別に殺戮した当時の新型爆弾「原爆」のことなど、いまでは歴史の彼方に霞みつつあるのが実情である。先日のある新聞に、平成の現在語り部として、小学校で原爆の被爆体験を話している人が、聴き手の小学生から「それなら日本は戦争で外国になにをしたのか」と問われて自分の考えの至らなさに気付いたという趣旨の記事が掲載されていた。評者はこの発言をした小学生の教育を担当しているところの、親なり教師なりの顔を見てみたい、という欲望を禁じ得ない。日教組か平和ボケした大人か知らないが、どうして小学生をこのように教育したのだろうか。自分が危害を加えられて死ぬかも知れない体験をした話を聞いて、現に被害に遭った目の前の自国民のことではなく、遠く離れた加害者の外国の立場に立って(まだ人生経験の固まっていない)小学生が小賢しくもそのような発言・質問をするということ自体、いかに半世紀以上の長期にわたり日本人が平和ボケしたか、その結果人間として、また動物として必然であるところの反射的な自衛本能を失ってしまったか、大人も子どももただ単に頭デッカチに育ち上がってしまったか、その事実を重く受け止めざるを得ない。遠からず日本は独立国ではなくなり、米国か中国かロシアの属国になるであろう、と評者が年来にわたって予測するゆえんである。
【それはさておき】
 本書には、東京大空襲を語り継ぐ作家の早乙女勝元氏が「戦争を知らない子どもたちに」というあとがきを寄せている。実際に戦争そのものに巻き込まれた経験と、その経験を本で読むだけの経験では、同じ経験でも天地の差があるわけだが、それでも戦争というものが一旦起こってしまえば、人間の生活がどんなに破壊されてしまうか、その軌跡をたどることにはなるだろう。本書は全国学図書館協議会に、中学校向きの「必読図書」として選定されている。表紙や文中に挿入されている画家の武部本一郎の戦時中の風景を描いた挿絵は、当時の雰囲気をよく伝えて、戦争を知らない世代にも、当時の雰囲気を伝える重要な役目を果たしている。これは中学生に限らず、日本国民の誰にとっても、まさしく「必読の書」である。著者の高木敏子氏は、評者が学校を卒業して初めて社会人になって勤務した会社の、直接ではなかったが、薫陶と影響とを大いに受けた元上司の配偶者であるが、残念なことに面識はまだない。
【蛇足】
 本書の著者は、昭和二十年(一九四五)三月十日の東京大空襲のとき、小学校六年生であった。そしてこのときの大空襲により母親と二人の妹を失う。大空襲のときは生き残った父親も、敗戦の十日前に、米軍の戦闘機による機銃掃射で亡くなってしまう。殺された父親の隣にいた著者に弾は当らず、ともかく生き残る。そして著者は大空襲のあと、東京・両国にあった自分の家の焼け跡に戻って「ガラスのうさぎ」をみつけた。評者はそのとき小学校三年生であったが、東京大空襲の夜、埼玉の奥に疎開していた祖父の家で、母親と一緒に裏山の裾に登って、わずか100キロ足らず離れた東京の空が真っ赤に焼けるのを見ていた。思わず縋りついた母親の温かい手の感触をいまでも思い出すことができる。父親は出征していてすでに居らず、後で知ったことだが、その時はもう戦死していて、我家はすでに母子家庭になっていた。著者の家でも評者の家でも、ともかく戦後生き延びた家族がいた。これは広島・長崎の原爆や東京大空襲、沖縄での地上戦などに巻き込まれて、一家が皆殺しにされ全滅した家族が無数にあったことを思えば、当時は生き延びられただけでも、幸運なこととしなければならなかった。□