tokyokidの書評・論評・日記

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書評・日産自動車50年史

tokyokid2008-05-01

書評・日産自動車50年史(日産自動車株式会社・発行)日産自動車株式会社調査部・編纂

【あらすじ】
 日産自動車は最初昭和8年(一九三三)に「自動車製造株式会社」として設立されたが、翌9年(一九三四)に日産自動車株式会社と改名して現在に至る。本書は昭和58年(一九八八)に創立50周年を記念して、以前にも発行されていた「日産自動車30年史(昭和8〜38)」と「日産自動車社史(昭和39〜48)」の後の10年の歴史を加えかつ創立以来の全期間を通観するように配慮して編纂された、と「あとがき」にある(非売品)。内容を目次から拾うと、「第1章・創業から戦時下の生産まで」「第2章・戦後の混乱からの復興」「第3章・自主技術の確立をめざして」「第4章・モータリゼーションを推進して」「第5章・本格的大衆化時代を迎えて」「第6章・輸出基盤の確立」「第7章・社会との調和をめざして」「第8章・第1次石油危機への対応」「第9章・グローバル企業への展開」の全9章から成る。そのほかに「DATSUNの誕生」「ウィリアム・R・ゴーハム」「代燃車」「オースチン小史」「第1回自動車ショー」「プリンス自工小史」「DATSUN からNISSAN へ」など、一般読者にとっても興味深い全部で32項目のコラムが全篇にちりばめられてある。そのあとの「広告に見る日産車の歩み」と「資料・年表」は、欧米先進国の自動車に対抗しようとした当時の、事実上日本の自動車産業の揺籃期の重要な一翼を担った「日産自動車」の50年の歴史を物語るものとして、まことに貴重な資料である。
【読みどころ】
 本書がカバーする昭和8年から昭和58年までの半世紀は、一日産自動車にとってばかりではなく、日本の国全体にとっても文字通り「大変な」半世紀であった。この間日本は、第2次世界大戦(太平洋戦争)に突入し、我が国2千年の歴史始まって以来つまり建国以来初めて外国の力に屈して敗戦を経験し、戦後の大混乱の時期を経たうえで、こんどは一転して誰も想像し得なかった世界の歴史上でもまれな経済高度成長を短期間で実現することになる。この間「国策」としての自動車振興の責任を負わされた私企業が、どのように国家の統制を受けながら自動車の生産に励んだか、視点を変えれば、利益追求をむねとすべき私企業がいかにして自由を犠牲にして統制の名のもとに国家に奉仕させられたかについて、社史は直接あからさまに語ることはないのだが、その気で読めば行間や紙背からその事実をいくらでも汲み取ることができる。そしてこの日産自動車の(戦前・戦中の)社内経験が、のちに同社が世界的規模の会社に昇り詰めたときに、当時の本社所在地をもじって「銀座通産省」とヤユされるほどまでに社内が硬直し、ついに時代の変化に追随できなくなる、じつにその直前の時までの歴史が語られているのである。
【ひとこと】 
 本書には「21世紀への道」という副題がつく。それがやがて、といっても間もなく、外国の同業者に身売りすることになるだろう、ということはもちろん書かれていない。戦後半世紀余りで、日本の自動車産業は、米国と並んで世界でも一、二を争うまでに成長した。その間「トヨタニッサン」といえば、2強×弱といわれたように、日本を代表する2大自動車会社の一方の旗頭であった。それがこの「50年史」が刊行されたそのすぐ後で、まさかの天下の日産自動車外資に身売りするという事態が起こった。これをあらかじめ想像していた人は、この「50年史」が刊行された当時、いたとしても少なかったに違いない。だが事実はあれよ、あれよという間に欧米の買手の名がいくつも取り沙汰され、そのうちでも弱小メーカーと目されたフランスのルノーにわずか6千億円ほどで買収されてしまう。このときの日産の資産は2兆円を超えていたのに、である。そしてルノーから辣腕のカルロス・ゴーン氏が派遣され、短時日のうちに日産自動車の再建を果たす。それはそれでいい。だが評者には、このときの日産自動車の再建がなぜ外人の手によらねばできなかったのか理解できないし、決定的な理由を探すこともできない。なぜならば、日本にだって優秀な経営者はいくらでも居り、傾いた大企業を回生させた名経営者を何人も挙げることができるのに、なぜ優秀な東大出が雲集していたであろう銀座通産省が自力で回復できなかったのか、この点を日本の経営学者に正確かつ的確に分析してもらいたいと思うのである。ついでながら、本書が編纂された時期の日産自動車の経営トップは(評者の寸評を交えつつ紹介すると)、「中興の祖ではあったが会社の舵を間違った方向に切り続けた自大男・川又克二会長」と「遂に長期低落傾向の日産自動車を回復軌道に乗せられなかった男・石原俊社長」であった。このふたりの経営者が、日産自動車外資に渡さねばならなかった事態に至る下地を長期間にわたって作り続けたことは、間違いない。
【それはさておき】
 自動車、とくに乗用車は趣味の製品である。換言すれば「ファッション製品」である側面を多分に持っている。すると自動車を購買する消費者が「好む」または「求める」自動車を供給できないメーカーは、いずれ場外に去らねばならない。平成20年(二〇〇八)のこんにち、アメリカでかつて「ビッグ・スリー」といわれた「ゼネラル・モーターズGM)」「フォード」「クライスラー」は、消費者が望む好燃費のクルマを供給できないという共通の理由で、3社揃ってこの轍を踏みつつある。その種のクルマは、原油バーレル百十七ドルを超えた現在、自動車メーカーとして生き残るにはその供給が必須条件なのだ。一方面白いことに、消費者の興味が向く自動車を作るには、三度のメシよりクルマの好きな「カーガイ」がいなければできるものではないと、自動車評論家の徳大寺有恒氏もその著書で喝破している。しかも企業が大きくなってくれば、ますます経営者の経営能力が問題となってくる。本書の主人公・日産自動車は、その恰好のケーススタディたり得る。日産が外資ルノーに買収されたあと、トヨタに続く日本の自動車メーカーの2番手として登場してきたのが(民族資本の)ホンダであるが、同社も「青山経済産業省」などとヤユされないように、将来も末永く、しっかりと世界で日本の自動車メーカーの存在感を示してもらいたい。□