tokyokidの書評・論評・日記

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書評・SAE Handbook 1965

tokyokid2008-03-19

080318・はてなブログ掲載
書評・SAE Handbook 1965年版(Society of Automotive Engineers, Inc.)

【あらすじ】
 SAE は、日本語で「自動車技術者協会」などと翻訳されることが多いが、実体はアメリカの団体で会員9万人を擁し、「自力推進の乗物に関する技術者の非営利団体」である。協会名に「International」を名乗ってもいるが、本部を米国ミシガン州デトロイトに置く「米国の」任意団体で、日本の「自動車技術会」とは直接の関係はない。SAE の活動内容を大別すると、本、論文、規格、セミナーなど多岐にわたるが、一般には定期刊行物の「Automotive Engineering」「Aerospace」「Off Highway Engineering」などの雑誌によって知られる機会が大きいのではないか。同会が対象とするのはあくまでも「自力推進の乗物」であり、それに関係する技術者の団体であるから、部門別にいえば航空宇宙、自動車、商用車輌、モータースポーツ、船舶、鉄道などである。アメリカでは、DMV すなわち Department of Motor Vehicles (自動車局)は自家用車、商業用車輌などいわゆる「自動車」のほかに、たとえばヨットやモーターボートなどの船舶の登録事務なども扱うので、「SAE」が「自力推進の乗物」全般を扱うことにアメリカ国内ではなんの不思議も持たれないと思われる。SAE は前述の如く「規格」も扱うから、本書評でとりあげる「Handbook 1965年版」は、当時の同会の各種の製品規格を本にしたものである。
【読みどころ】
 SAE に関する上記の説明でも明らかなとおり、本書には「自力推進の乗物」に関係の深い素材や部品の規格が掲載してある。最初に SAE に関する説明が50頁ほどあり、そのあとは「鉄鋼」「非鉄金属」「非鉄物質」「ねじのみぞ」「ファスナー」「スプライン」「バネ」「管と付属物」「電装品」「照明器具」「エンジンと付属品」「自動車・バス・トラック」「トラクターと建設車輌」「船舶」の各項目に分けて規格の掲載があり、そのあとに「索引」がついている全部で一千頁を超える「規格」の大冊である。
【ひとこと】 
 評者がこの本に出会ったのは、社会人になって自動車・機械部品の製造業に従事するようになって間もなくのことであった。いまから40年以上前のことである。当時日本のメーカーはどこでも、自社製品が日本国内のみならず世界に通用することを目指して、会社を挙げて大車輪で動いていた時期であった。当然評者が勤めていた会社でも、当時の技術水準でははるか前を走っていた先進国の米国を含む外国に自社の製品を売り込もうとして懸命に努力していた時代であった。そのためには輸出先の規格に合った製品を作らねばならない。そこで当時東京・芝にあった(米国大使館の付属部門であったと記憶するが)「アメリカ文化センター」にある図書館に通っているうちにみつけたのがこの自動車部品に関するアメリカの規格文書であった。自社の製品を輸出するために白紙の状態から出発しなければならなかった当時の日本の企業では、評者のような技術系でもない単なる文科系の新入社員にも、会社の主要製品の基本的でかつ重要な技術情報の収集を任せていた、または任せざるを得なかった時代であった。われわれ新入社員の側からみれば、責任のある仕事を任せてもらえた「有難い」時代であった。評者は本書を見て、生れて初めて「技術規格」というものは、対象の素材や部品などに関してまず「Scope」として概略を規定し、そのあと「加工・仕上」や「機械的性質」「化学物質の構成」「検査項目」「手直し」「証明」などの細目規定に及ぶことを知って、目からうろこが落ちる思いをしたことを、昨日のことのように思い出すことができる。当時評者が扱っていた製品群は、本書の「非鉄物質」や「管と付属物」の項目で規格化されている「オイルシール」や「Oリング」であった。いまこの企業は、これらの製品やその後新たに開発された新製品に関して、日本国内は愚かなこと、世界でも一、二を争う巨大メーカーに成長している。
【それはさておき】
 この虫が食っていそうな古い本を開くと、東京・羽田にあった会社からアメリカ文化センターにしばしば通った評者には、当時のまだ戦後を脱し切れていなかった東京の街の風景と、芝公園にあったアメリカ文化センター図書館の窓外に見えた明るい初夏の若緑色の木々が風にそよいでいた風景が重なって思い出される。第二次世界大戦で米軍の足として大活躍したジープや、一九五〇年代後半の巨大な尾ひれをピンと跳ね上げて東京の街を我が物顔に走っていたカラフルなアメリカのキャデラックやフォードやシボレーに交じって、トヨタダットサンのいわゆる「国産車」が街を走るのがぼつぼつと目に付き始めた頃のことであった。□