tokyokidの書評・論評・日記

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書評・英々辞典

tokyokid2007-10-27

書評・英々辞典

メリアム・ウエブスターズ・カレッジエイト・ディクショナリー第10版・著作権登録1993年(メリアム・ウエブスター社)【通称「ウエブスター辞典」第10版】

【英々辞典とは】
 一般論でいえば「英々辞典」とは、英語による国語としての「英語」辞典である。書評にとりあげたこのいわゆる「ウエブスター辞典」は、1843年以来の伝統を持ち、アメリカを代表するベストセラー辞書である。この辞典には、実際に書き話す1450万を超える英語の用例から100万を超えた用例を収録してある(これは見出し語が100万を超える、という意味ではない。このように、単に比較的数の少ない見出し語の数を記載するのではなく、数の圧倒的に多い用例の数を記載することによって、意識的に辞典に権威づけを行うやり方をとることは、日本ではあまり見られないことに注意すべきだ)。英々辞典は、本来英語を母国語とする人が使う辞書であるが、後述するように、外国人であっても英語を母国語並みに習得しようとする人(日本人など英語にとっての外国人)には必須の辞書である。
【あるべきよう】
 アメリカ社会と日本社会の差を反映して、日本人の共通認識からいえば、この「ウエブスター辞書」の自己主張ぶりはすさまじい。本文以外の頁では、自己の権利の主張から始まり、いままでの経緯から広報・宣伝に使えそうな事実の羅列など、これでもか、これでもかと自己の主張を読者にせまる。これが本来資本主義にもとづいておこなわれる経済活動の必須課目なのである。例を挙げれば、カバーの裏表紙一面を使ってのこの辞書の最初の基礎を築いたノア・ウエブスター氏と、同氏の死後この辞書を現在の形に導いたジョージとチャールス・メリアム両氏が、いかにこんにちの「ウエブスター辞書」を創り上げたか、だからこの辞書は「メリアム・ウエブスター辞書」と呼ばれなければならないかを綿々と綴る。また内扉には、著作権登録年とお定まりの「すべての権利は版権者に帰属する・・・何人も・・・してはならない」の謳い文句が明記してある。日本の国語辞書で、ここまで自己主張しているものはない。話は変るが、これを見ても「グローバル・スタンダード」の名のもとに、日本社会および日本人が、彼らの標準・基準を用いた経済活動において、アメリカ社会およびアメリカ人に対抗して、世界のなかで生き残っていくのは、並大抵の努力では追い付かない事実を証明している。つまりこれらの辞書の違いは社会の違いを端的に現しているのであるが、過去に「ビッグバン」を容認し、推進した故・橋本首相は、その治世に当ってこの事実を認識していたのであろうか?
【使ってみれば】 
 英語が母国語ではない日本人、例えば評者がこの「ウエブスター辞典」を使うと、説明文のなかにまた解らない言葉がでてきて往生するのが常である。日常的に(母国語ではない英語を)英和・和英辞典で学んでいる日本人にとっては、英々辞典を使うことによって本質的に英語を理解する機会が多いとはいえ、日々の日本語と英語を対訳方式で理解する学習にくらべて大いに異なった努力を要求される。ここに限られた時間と機会の制限のなかで英語を学習しなくてはならないつらさがある。逆に言えば、英々辞典を使うことは、本来ナマの英語をナマのまま習得することができる、ということが、かけがえのない特典なのである。
【それはさておき】
 評者の知人にも、日本人でありながらアメリカ人なみに流暢な英語(正確には米語)を操ることのできる人がいたが、この人は学生のときから一貫して「英々辞典」を使って英語を勉強した、と言っていた。英語を英語として理解し、吸収し、駆使するためには、英語を母国語とする人たちと同様に、(英語を日本語との対訳方式で学ぶのではなく)直接英語を英語そのものを使って学ぶことが必要なのである。ちょうどわれわれ日本人が、日本語を国語辞典で学ぶのと同様なのである。いつも「対訳方式」で日本語を英語と比較しつつ英語を操るか、それともアメリカ人なみに英語(だけ)で思考し、英語(だけ)で表現してアメリカ人なみの英語能力を獲得するか、それはその人がその人の哲学と環境によって、自分で決めることであろう。□