tokyokidの書評・論評・日記

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書評・うみやまの友だち

tokyokid2007-08-05

書評・★うみやまの友だち(瀧本阿彌子著)自費出版

【あらすじ】
 本書は児童文学のジャンルに属する。おとぎばなし、と言い換えてもいいだろう。五章からなり、それぞれの章の登場人物?は「カニの潮太」「みどりいろの目のうさぎ」「三つ子の猫」「カメのカメオとトラのトラ子」「大きなおさかな・小さなおさかな」である。動物になぞらえてはあるが、一読してそれが人間のこどもたちを髣髴させるから、筆の力は恐ろしい。いやこの場合は、生き生きとしている、というべきだろう。底本には、たまたま手許にあったこの本を選んだが、著者にはほかにも「空とぶミミ」「白い花たち」「小鳥のくる日」など、子どもに読むことをすすめることのできる良い著作がたくさんある。
【読みどころ】
 児童文学者の常として、目線を子どもの目の高さにまで下げる、ということがある。また著者自身の生活信条が無意識のうちに作品に反映される、ということもあるだろう。本書のどの章を読んでも、読者は著者の優しさ、それも単なる甘やかしの優しさではなくて、キリスト教精神の「愛」に裏打ちされた愛情を嗅ぎとることができるだろう。著者の考え方の基本、というか、精神のバックボーンがキリスト教の愛にあるということが、著者の作品を凡百の他の児童文学、つまり「優しいだけの、子供向き」児童文学からはかけ離れた存在であることを可能にしている。
【ひとこと】
「あとがき」で著者は、この作品は自身が通っているキリスト教教会の日曜学校にくるこどもたちに、話したり紙芝居にしたりした内容をもとにしたものである、と記している。自然科学とは異なり、人文科学の分野では、その人の主義主張が重要な役割を果たす、というか、むしろその人の考え方を担保するという積極的な役割を果たす事実を見逃すことはできない。小説にしてもドキュメンタリーにしても、書く人の視点が定まっていないことには、(単なる事実を報道するのが使命の)新聞記事と変らないことになってしまう。「あさ起きて、顔を洗ってごはんを食べて、ランドセルを背負って学校に行きました」と日記に書いたら、小学生の宿題としては通用するだろうが、大人の作品としては粗放のそしりを免れることはできない。そのように書くにしても、自分の「どの」ような主義主張に従って「なぜ」そのように書いたのかが説明されていなければならないのだ。そのところがあいまいなまま、著名な出版社の賞を与えられたりするいわば「濫作」が、最近の世の中を跋扈している。とくに小説の分野において顕著な現象で、これは現代小説であると時代小説であるとを問わない。この現象は、武士は食わねど高楊枝、文士はもともと清貧に甘んじても自己の主義主張を世の中に広めることを主眼とした作家がいくらでも存在したころの、いまとなっては古き良き時代からは隔絶したものであると、評者の目には映る。
【それはさておき】
 著者は評者にとって、高校時代の恩師である。瀧本先生は、国語(現代文)を私たちに教えてくださった女性教師であり、三年生のときの担任でもあった。当時のわれわれ悪童どもとそう年齢もかけ離れておらず、平成のいまでもご健在で、相変わらず教え子に慕われて東京の真ん中で暮らしておられるのを見るのは、まことに心楽しい。若き日の先生を存じ上げているからこそ、先生の考え方も、作品に反映されることどもも、いちいち腑に落ちる、のである。□