tokyokidの書評・論評・日記

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書評・国家の品格

tokyokid2007-03-13

書評・★国家の品格藤原正彦著)新潮新書

【あらすじ】
 本書は、数学者である著者の2回にわたる講演記録に手を入れて一冊の本にした、と冒頭の「はじめに」の項に明記してある。本書の目次を紹介すると、
第一章・近代的合理精神の限界
第二章・「論理」だけでは世界が破綻する
第三章・自由、平等、民主主義を疑う
第四章・「情緒」と「形」の国、日本
第五章・「武士道精神」の復活を
第六章・なぜ「情緒と形」が大事なのか
第七章・国家の品格
とあり、本書の内容をひとことでいえば、第二次世界大戦後ずっと国際化という名のアメリカ化に馴らされてきた日本人は、日本固有の誇るに足る国柄を忘れてきているので、論理より情緒、英語よりも国語、民主主義よりも武士道精神を以って「国家の品格」を取り戻すべきだ、という論旨である。日本社会の成り行きが、これではいけないと漠然と感じている人の層は厚いと思われるが、それではどうするか、その辺の具体的な進路としての日本のプリンシプルたり得る道を明示してみせたのがこの書である。
【読みどころ】
 著者の藤原正彦氏は昭和十八年(一九四三)生れの、作家の新田次郎藤原てい夫妻の次男である。自身の専門は数学で、その専門分野でアメリカや英国で教授や研究の経験があるところの有力な「国際派」である。本書には著者を「御茶ノ水大学理学部教授」として紹介があるから、二〇〇五年十一月の本書発行のときは、大学教授(数学)が本職であった。同氏は理学系の人であるにもかかわらず、本書に見られるように人文科学系についても活発な発言があるので、その点でも特異かつ貴重な人材である。数学といえば論理の世界であろうと評者などの門外漢は思うわけだが、その論理を駆使する立場の数学者である著者が、前述の目次の第二章で{「論理」だけでは世界が破綻する}と断言されると、「おや」と目を見張らされざるを得ない。著者の主張をひとことでいえば、日本はアメリカのモノマネばかりしていても立ち行かないよ、ということであろう。ではどうすればいいのか、という問いに答えて「情緒と形」を重んじ、卑怯を憎み惻隠の情を忘れない「武士道精神」を復興せよ、と説くのである。なかんずく、第三章の「自由、平等、民主主義を疑う」で展開される「成熟した国民は永遠に存在しない」という、民主主義の限界を指摘する著者の論点には、首肯する読者が少なくないのではないか。評者も含めて、民主主義は国民が根底にあるから、その国民が成熟しなければよい民主主義は望めない、と漠然と感じてはいても、このように著者から指摘されるまでは、ふんぎりがつかない思いを抱えたまま同時にずっと疑問も抱えていた状態の人も多数あったと思われる。そして大切なことは、著者は「ならばどうするか」という命題にきちんと回答を出していることなのだ。そして興味深いことは、論理のかたまりのような数学を専門とする著者が、「情緒」などというおよそ論理とはかけ離れた要素を、国家の品格を形成する重要な一要素として取り入れている、という面白さである。
【ひとこと】
 以前評者はこの「書評」で、白洲次郎の「プリンシプルのない日本」を取り上げたが、藤原正彦氏はあたかもその疑問点を見定めたごとくに本書を上梓してきた。評者の解釈では、著者は「国家のプリンシプル」は「国家の品格」だとし、それは論理からは導き出せないものだとする。そしてもともと日本には諸外国にも見られない高尚な「国家の品格」が存在したのであり、いまはそこに思いを致して回帰すべきだ、という考えなのだ。具体的には「情緒と形」であり「武士道精神の復活」だ。アメリカの後を追って、拝金主義がはびこった最近の日本を見て亡国を思う憂国の士は少なくないことを思い知らされる。かつて日本には、物質は精神の下位にあるべきだ、という考え方が存在し、なるがゆえに「武士は食わねど高楊枝」なのであり「カネ持ち」はそれだけの理由では尊敬されないところの社会的な土壌が存在したのだ。つまり「形而上=精神」は「形而下=物質」に優先したからこそ、武士はいかに経済力では町人に劣っていても、経世の士ということだけで、世の中の尊宗を受ける存在だったのだ。もともと「経済」は「経世済民」に出発した言葉であり、経世上の道具立てであったはずなのに、いつの間にか手段と目的が入れ替わって解釈されることが多くなって現在に至る。そのような世情に一石を投じたのが本書であろう。
【それはさておき】
 著者の藤原正彦氏は、そのむかし自身のアメリカ留学・教授の経験をもとにして「若き数学者のアメリカ」(新潮文庫)を上梓した。初出は昭和五二年(一九七七)というから、もう三十年も昔の話である。この本で、著者は専門の数学にはほとんど言及せず、ハワイ、ラスベガス、ミシガン、フロリダ、コロラドなどでの(学校だけではなく社会全般での氏と異国社会の接触)経験を踏まえて、アメリカ社会との接点を描いてみせた。このころから同氏の著述は比較文化論的なところがあった。第三者的な見方をすれば、その立派な「国際派」である著者が、日本のプリンシプルとして重要なのは「英語より国語と漢字」だと言い切るあたりがまことに興味深い。これは最近日本の小学校での教育に英語を取り入れたアメリカ追従の風潮に逆らうものであるが、漢籍をなおざりにして日本人の心を保つのはむずかしいという評者の日頃の意見とも合致するもので、氏の意見には意を強うされるものがあった。歴史は単に繰り返すのではなく発展するものだ、という見方からすれば、本書は今後の日本と日本人がめざす方向を明らかに指し示していて、つまりは「国際派」であるよりはまず「自国の良き市民」でなければならない、という思想が裏打ちされており、なるほどと思わせられる。□