tokyokidの書評・論評・日記

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書評・零の発見

tokyokid2007-07-05

書評・★零の発見(吉田洋一著)岩波新書

【あらすじ】
 副題として「数学の生い立ち」とある。函数論の権威として知られた著者が「数学を知らないまったくの素人だけ」を念頭に置いて、数学を材料とした通俗的読物集として書かれた。以上は著者による「はしがき」の冒頭に触れられている。内容は「零の発見・アラビア数字の由来」と「直線を切る・連続の問題」の2章に分かれる。数学の嫌いな人でも、社会人になって以来「足す・引く・掛ける・割る」の四則演算以外に数学を用いたことのない評者のような「文科系・数学嫌い」の者でも、読物として気楽に読め、そして数学の本質に(素人なりに)ちょっとでも触れた思いができるということは、数学嫌いにとっては望外の幸せなのである。
【読みどころ】
 この本を読むと、人類の叡智というものはどんなものであるかがよくわかる。幼児でも「ひとつ、ふたつ・・・」と数えられるものを数えることは、3歳にもなれば自由自在であろうが、「ゼロしかない・ゼロがある」と言っても、3歳ではなかなか理解できないだろう。数字の「ゼロ」を発見したインド人、それまでは(たとえばローマ数字に代表されるような)長い文章風の字句を以ってしか表されなかった大きな数字が、ゼロの発見によって、10進法に代表される現在のような分りやすい簡潔な表現(アラビア数字)に変ったことなどを知ると、なにやら(数学の分野だけではなく)哲学の分野にまで踏み込んだような気になる。本書を読めば以上述べた事柄だけでなく、タレスピタゴラス(著者によれば“ピュタゴラス”)の数学に対する貢献や、代数と幾何、有利数と無理数、ツェノンの逆説(著者によれば“ゼノンの逆理”)、円周率などの問題の本質を数式や数字に捉われることなく、文科系でも理解することができる。本書は評者のような、いまどきの3歳児にも劣る数学未熟者の目を開かせてくれた。
【ひとこと】
 本書評で以前に取り上げた「黄河の水・鳥山喜一著」のところでも同じことを言ったと思うが、専門家が素人にも分るような解説書を書くということは、稀有でありまた大変なことなのである。書く本人は、その問題に関しては専門家であるから、知識・経験ともに充分であることは論を俟たない。でもその内容を素人向きに噛み砕いて解説するということは、その専門を拳拳服膺するのとはまた別の大きな才能を必要とする。鳥山喜一と並んで本書の著者である吉田洋一も、その限られた才能に恵まれた一人であった。評者は、戦後間もないころに建築設計家であった(当然数学には堪能であり、母の妹の連れ合いであったところの)叔父に本書を教えられて読んだのが最初であった。数学どころか数字にさえも疎い、出来の悪い文学かぶれの甥に、数学のさわりの部分だけでも触れさせてやろうという、当時父親を戦争で失くして父親代わりともいえた評者の叔父の親切心を、心から感謝している。余談ながらこの叔父の設計作品には、いまの国際会議場になる以前の東京・有楽町の都庁第二庁舎、川奈のゴルフ場クラブハウス、金沢の刑務所などが含まれる。著者が本書を武見太郎に「ささげた」のと同様、評者も本書評をいまは亡き叔父の霊に捧げたい。
【それはさておき】
 本書の初版はなんと昭和14年(一九三九)の昔に出版されている。本書評の底本にした昭和41年発行の37刷(正確には第2版第16刷、というべきであろうが)の扉のうしろ、正確には第3頁に「武見太郎氏にささぐ」と書いてある。著者の吉田洋一とこの「武見太郎」とどのような関係にあったか、本書では一切触れられていないが、もしこの「武見太郎」が戦後長い間医師会会長を務めた例の「ケンカ太郎」であるとするならば、著者がなぜこの書を「武見太郎にささげ」たのか、ちょっと知りたい気もする。
【蛇足】
 評者は自分が文科系であるにもかかわらず、製造業に就職してしまったことで、否応なく理科系の仕事に首を突っ込むことになった。文科系をアナログ系とすれば、理科系は間違いなくデジタル系で、それぞれ思考回路がまったく違う人たちの集まりに思える。しかし同じ人間であるから、文字(文章)を使って意志を伝達すること自体は変らない行為であるわけだが、文科系と理科系では、その文章作法が大きく違うようにも思える。つまり文章を書くにあたって、相手の総合理解力に期待するか、事実の有無とその解説に力を割くか、の違いではなかろうか。その点以前本書評でも紹介した「黄河の水・鳥山喜一著」「理科系の作文技術・木下是雄著」と、今回取り上げた「零の発見・吉田洋一著」などは、本来本質的に表現方法が異なる文科系と理科系の文章作法・方法論の橋渡しができる事実を証明した、数少ない良い見本である。□