tokyokidの書評・論評・日記

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書評・新聞社

tokyokid2007-07-01

書評・★新聞社(河内孝著)新潮新書

【あらすじ】
 副題に「破綻したビジネスモデル」とある。内容は膨大な販売経費を注ぎ込んで保持されている「世界に冠たる」宅配制度のおかげで、いまはまだ日本の家庭に日々配達される新聞の(近い?)将来に於ける危機存亡に係わる現状と、ならばどうするかの処方箋を、著者なりに分析して提示してある。この場合「新聞」とは、いわゆる一般紙を中心に、全国紙のみならず地方紙にも筆が及んでいる。
【読みどころ】
 著者は毎日新聞社の新聞記者から始めて最後は常務取締役を務め、二〇〇六年に退任した新聞のプロ。昭和十九年(一九四四)生れというから、団塊の世代寸前の人といえる。当然新聞界の内部事情に詳しく、統計を駆使し、また外部から伺い知るには限界のある新聞界特有の商習慣についても、適切かつ有効な観察と分析がなされる。とくに印象に残るのは、一九九〇年代初頭に、バブルの崩壊とともに新聞が置かれていた立場が根本から覆ったという指摘だ。著者によると、その後十五年以上経ったにもかかわらず新聞人大勢の意識は相変わらず旧態依然としており、その後登場してきたITへの対応策がいまだに出来ていない、という。人間がそれまでの行動パターンから簡単には脱却できないという事実を考えれば、それも仕方ないとも言える。でも新聞はいま存続の淵に立たされている、というのが著者の観察である。本書は著者自身によるまえがき、あとがきのほか、次の五章からなる。
第一章・新聞の危機、その諸相
第二章・部数至上主義の虚妄
第三章・新聞と放送、メディアの独占
第四章・新聞の再生はあるのか
第五章・IT社会と新聞の未来図
外野席に座るわれわれ素人の読者にとっては、「部数至上主義に基づく無理な拡張行動」「そのためにもたらされる異常に高い販売コスト」「それだけ拡張攻勢をかけても1年以上同じ新聞を読み続ける(良質の)読者が全体の89%強を占める・10年以上同じ新聞を購読しているのは51%強(86頁)」「したがってナベカマ攻勢による拡張運動は、残りの11%弱の(浮動)読者を利するだけ(86頁)」「拡張運動とヤミの世界との関わり」「広告収入と販売収入の比率は90年代以降広告3に対して販売7(18頁)」「新聞社の販売経費率は40〜50%(19頁)」などに示される実情は、意外というほかはなかろう。これが「だいたいそんなものだと想像していた」という人は、よほど新聞業界内部に通暁していたか、先見の明のあった人だと考える。著者はなにより日本の人口減と近々予想される消費税アップ(それがどの程度であろうとも)が、現行の新聞の息の根を止めるほどの打撃になるであろうと予測する。
【ひとこと】
 著者は毎日新聞社出身であるから、その立場からものを見てものを言うのは仕方ないことだ。それにしても著者が指摘するように、業界首位の読売と2位の朝日が連係して他の新聞社を追い落とそうと画策しているとするなら、その他の新聞社は当然自衛策を講じないわけにはいくまい。読者の私たちとしては、世の中はなにごとも寡占状態になるとサービスは目に見えて落ちるということは、肝に銘じてあることだから、ただでさえ著者が第三章で説く「新聞がテレビを支配する」現状には、真剣に向き合わざるを得ない。アメリカの現状をみても、テレビの三大ネットワークであるABC,CBS,NBCは、政府の鼻息ばかりうかがっていて偏向している、政府の政策に左右されないで自由に報道するのはむしろCNNなど独立系だ、という声が高い。自由ということに関しては筋金入りのアメリカにしてこれが現状であるから、戦前の大政翼賛会の歴史的事実とその体質を持つ新聞業界と国民の性格を考えると、日本での報道のあり方は、現状に満足しているわけにはいかないのである。人口減やIT台頭など、世の中の変化をチャンスと見るかリスクと見るかは立場によって異なるだろうが、善意の国民という立場からみれば、これを機会に日本の報道のあり方を考える、そして改善する、いい機会なのではなかろうか。
【それはさておき】
 かつて業界用語で「新聞」は「カミ」と呼ばれた。文字通り新聞とは新聞紙であったのである。時代は移って、新聞の役割のかなりの部分は、テレビやITで代用というか、むしろ新聞を超えるサービスを「早く・安く」提供されることが可能となり、常態となった。評者の意見としては、新聞では「報道」と「論説・解説」がくるまの両輪であろうと考える。でも「報道」に関しては、すでにテレビやインターネットの報道に対して新聞は時間的に太刀打ちできないことは明らかだ。ならば新聞は、読者各人が必要とする論説・解説記事を表に押し立てて独自の境地を切り拓いていくしかなかろう。たとえば日本国(国と自治体)が、返済が孫子の代にまで及ぶ大借金体質であるとすれば、それではいまの国民の稼ぎ(=GDP)はいくらか、そのうちからアメリカの国債を年いくら買わされているか、その残高はいくらあるのか、借金はいずれ返さねばならないものであるから、返済の青写真はどうなっているのか、などなど、読者は知りたいが(でも個人である自分の手では)必ずしも調査・分析・論評が及ばないニュースなんていくらでもあるのである。いわば記事作成上の「未開の地」はまだまだ残っているのであり、報道のタイミングではITに敵わないとしても、論説で、ちょうどいまの週刊誌が新聞を相手にして一週間ごとの特集で生き延びているように、新聞も一日ごとの特集で自分が生き延びる余地を作り上げていくしかない、と思われる。このことは、現在の新聞が、ともすれば無知蒙昧な読者に対して啓蒙の役割を果たそうとする、明治時代以来染み込んだ新聞社特有の慣行体質にも合致して、新聞社としてもやりやすいのではないか。新聞とは寝転んで「気楽に」読むもの、パソコンは椅子に座って「改まって」操作するもの、という固定観念を持つ評者のような化石人間には、いつでも好きなときに読める活字の新聞紙が身辺にない生活などは考えられないのだが。□