tokyokidの書評・論評・日記

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書評・アメリカ人民の歴史(上・下)

tokyokid2007-06-02

書評・★アメリカ人民の歴史(上・下)(レオ・ヒューバーマン著、小林良正・雪山慶正共訳)岩波新書

【あらすじ】
 アメリカの歴史を、それまでの歴史書の多くとは視点を変えて書いた本が本書なのである。上巻の冒頭「日本版への序文」のなかで、ほかの歴史書と違う2点について著者が指摘している。ひとつは、歴史の題材を幅広く、首尾一貫して取り上げた、ということだ。もうひとつは、ほかの歴史書にみられるいわゆる「偉人」ではなく、「さまざまの困難に苦しみ、かずかずの戦争を戦い(中略)わが国を建設したなみの男や女や子供たち」・・・つまり民衆を書くことに首尾一貫したのだ。この点で本書は、初代大統領のワシントンや、独立十三州や、第十六代大統領のリンカーンなど、ありきたりのアメリカの偉人像を大々的に取り上げて、そのことによってアメリカの歴史を語った凡百の本とは、本質的に違う視点を持っているのである。上巻はヨーロッパからの移民から始まって南北戦争まで、下巻はそのあと第二次世界大戦終結まで、という内容になっている。草の根のアメリカ人が、事に及んでどういう行動をとるか、またどういう考えを持って行動するか、これらの基本的なことを学ぶことのできる歴史書がこれだ。
【読みどころ】
 著者がこの本の題材とした人々が、第一章の「ここに彼らきたる!」に書かれている。冗長にわたるかも知れないが、その部分を紹介しよう。「(前略)いたるところから人々はアメリカの海岸に引きつけられた。(中略)白人も黒人も黄色人も褐色人も、カトリック教徒もプロテスタントユグノーもクエーカー教徒もバプティストもメソジストもユニテリアン派もユダヤ人も、(後略)」・・・このあと十七の国籍や二十二の職業が延々と並べられる。あらゆる意味でこういう多くの種類の人々が織りなすアメリカ史を、著者は草の根の視点から、草の根の人々が演じた歴史上の役割を、われわれ読者の目の前に突きつけてくるのである。いまさらながらに、国の歴史というものは、国を構成する「人民」が作り出したものであって、必ずしも国を管理する「政治家」や「役人」どもが作り出したものではないことが、本書を読むことによって実感される。
【ひとこと】
「メルティング・ポット」とか「サラダ・ボウル」とか評される、雑多な人種が集まって構成されるアメリカ。それぞれの出身国の価値観を背負ってアメリカに来たこれら移民の人々が新しいアメリカという国を作り上げたのだが、それが同じ大航海時代に端を発したところの、似たような経緯で建国されたほかの国々、たとえばブラジルやアルゼンチンや南ア連邦などと、なぜこのように文化的にも文明的にも政治的にも軍事的にも、もちろん人種的にも、異なった国が出来上がってしまったのだろうか。それは大航海時代当時から、植民地経営に慣れた英国の植民地として出発したという、アメリカの出自と関係ないわけはなかろう。だが、アメリカの建国やその後の発展に力を尽くしてきたのは、本書に描かれるところの「人民=ただの人たち」なのであった。「ただの人たち」は、ほかの同じような経緯で建国された国々にも居たであろうが、どうしてこれらの国々はいまや世界唯一の超大国といわれるまでに成り上ったアメリカのようにならなかったのだろうか。歴史は人を考え込ませる。
【それはさておき】
 国としてのアメリカと、個人としての個々のアメリカ人とは違う。そんなことは分り切ったことだ。たとえばあるアメリカ人が泥棒をしたからと言って、アメリカは泥棒の国である、とは言えない。そのことを百も承知の上で、誤解を恐れずにいえば、次のようになるだろう。アメリカは国民が最大限に各個人個人の自由を追求してきた国だ。だからこそアメリカ人は子どもの頃から自己主張が強いし、自分は正義であると思い込んでいるし、他人(他国)に自分の正義を及ぼすことは避けてはならない義務だと思い込んでいるのだ。アメリカ人にしてみれば、矛盾する「自由」と「正義」のはざまの舵取りを、キリスト教精神で裏打ちしながら実行してきたし、いまでも実行しているし、これからも実行するだろう、ということだ。アメリカまたはアメリカ人としては、そうするよりほかはないし、必ずそうするだろう。だがよそものの、たとえば日本人の評者の私からみれば、アメリカの青臭い正義感、他国への強圧的なお節介、時に触れてみせるところのむせ返るような善意をどう解釈したらいいのか、これらの葛藤に気が付いて茫然とせざるを得ない。しかも第二次世界大戦(太平洋戦争)以降六十年の余にわたって、日本が平和を保ってこられたのは、アメリカの核の傘に守られていたからであることは、まぎれもない事実なのである。この事実と、本来独立国であるべき日本は、自分の国の仕置きは自国の責任で行われなければならないのに、それではこれからどうするのか、現在の日本のあれこれを考え合わせて、これまた茫然自失のありさまにならざるを得ない。アメリカのように、自由と正義をキリスト教精神で貼り合わせるという技量を持たない日本としては、憲法を改正すればそれで万事が解決されるという保証はなにもないだろう。そこをどうするのか、考えてみればわれら日本人の子孫は、軽佻浮薄な先人によって国家予算の何倍にも当る債務を押し付けられ、国の存在にかかわる命題も先送りされ、地球の環境もますます厳しさを増すなかで、これからの国の屋台骨をゆるがすほどの難題をいくつも解決していかなければならないのだから、まことにご苦労な話なのである。□