tokyokidの書評・論評・日記

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書評。誰か「戦前」を知らないか

tokyokid2007-05-05

書評・★誰か「戦前」を知らないか(山本夏彦著)文春新書

【あらすじ】
 日本で「戦前」といえば、第二次世界大戦(太平洋戦争)以前のことである。日本が真珠湾攻撃で対米戦争の口火を切ったのが昭和十六年(一九四一)十二月八日、日本国を全面的に焼け野原にして降伏したのが昭和二十年(一九四五)八月十五日だ。だから一般に「戦前」といえば昭和十六年の対米開戦以前、戦争が始まってから敗戦で終るまでを「戦中」、そして昭和二十年の敗戦後を「戦後」と呼ぶのがふつうだ。【ちなみに、戦後六十年間も、日本は自国と他国を含めて、(公式には)戦争で誰も一人も殺さなかったわけだが、こんな国は世界でも珍しかろう。この実績を、日本はなんで世界に喧伝しないのか、評者には合点がいかないがそれはさておき・・・】
平成十九年(二〇〇七)のこんにち、戦後六一年が経った。そして戦前生れの人は極端に少なくなった。とくに男子で兵役に就いた者が生きていたとしても、たいてい七五歳以上であろう。たとえいま生きていて七五歳であっても八五歳であっても、当時兵役に就いたといっても当人にとっては少年時代の話で、敗戦時には将官・将校はおろか、下士官にもなっていなかった人がほとんどに違いない。平成のこんにちからみれば、二世代以上も前の話なのである。でも昭和は良きにつけ悪しきにつけ、社会の存在とその動きが濃い時代だった。その二世代以前生れの著者が、平成のいま「戦前」を語って、その落差に愕然とする話を面白可笑しく書いたのが本書である。
【読みどころ】
 著者の山本夏彦は、大正四年(一九一五)東京・根岸(台東区)生れ、平成十四年(二〇〇二)十月没。若年のころフランス・パリに住んだことがあり、戦後は昭和三〇年にインテリアの専門雑誌「室内」(当初は「木工界」)を創刊、発行者と経営者・編集者をも兼ねた異色の人であった。著書も多く、「私の岩波物語」「笑わぬでもなし」「『室内』40年」「茶の間の正義」「世は〆切」「編集兼発行人」「かいつまんでいう」などあり、菊池寛賞読売文学賞を受賞している。著者は戦前の人生を(それも感受性の鋭い若年のときに)二十六年間も過ごしているわけだから、当然大正と戦前の昭和も熟知していた。その人が、二世代を過ぎた平成になってから、戦前に「ジョーシキ」であったことがらを、現在の人がいかに知らないかをユーモアたっぷりに書いたのが本書なのである。いや、平成人が知らないのは「事柄」ばかりではない。「言葉」すらも知らないのである。
その落差を語って著者は以下の如く言う。「誰か戦前を知らないか・戦後五十年という歳月は一人二人三人よったりと言わないかと二十代のパートナーに問うと、聞いたことがないと全員答えました。昔は道中に雲助が出たと書きましたら、ウンスケとは何者かと問われました。核家族は完了したのです。手をかえ品をかえ私は「戦前という時代」を試みて満場爆笑して終始和気の如きに包まれました。みんな「共通一次」のせいです。この小著はいま「室内」連載中の半分です。どうぞお笑いください。」(カバー内扉の著者の言から引用)
【ひとこと】
 日本人の記録好きは、いまに残る江戸期文書の膨大な量によっても知ることができる(評者はこれを世界に冠たる、当時の世界的水準をはるかに抜いた日本特有の高い識字率に支えられた特異な現象だと思う)が、後世になると公式文書はともかく、日常生活や日常使った言葉を記録に残してある例が極めて少ないのが普通である。本書はこの点を補って余りある。以下の問答は抱腹絶倒ものであるが、この程度の話は本書の至るところに転がっている。
山本・・・高山樗牛夏目漱石と同時代人です。「月の夕べ、雨のあした、われハイネを抱きて共に泣きしこと幾たびか」(中略)などという「美文」を書いて満都の子女の紅涙をしぼった人です。(後略)
聞き手の若い女性編集者・・・マントを羽織った子女ですか。なぜマントを羽織っていなくてはならないんですか。
山本・・・ははは。マントではなくて満都。東京中の子女の紅涙をしぼったってことです。
聞き手の若い女性編集者・・・私ゃ泣けませんよ。(29頁)
評者の私としても泣くに泣けない。笑えてくるのである。でも先日、日本語の堪能な年配の台湾人が日本の新幹線の駅で、若い人に「はばかりはどこですか?」と訊いたが、だれも「はばかり」を知らなかったという話を聞いていたし(はばかりは便所のこと)、ロスアンジェルスダウンタウン日系人の老人ホームに取材にきた若い女性の新聞記者が、入居者(還暦以上)に「側室ってなんですか?」と尋ねた話とか(側室は貴人の妾)、いやはや、二世代も違うと抱腹絶倒の話題には事欠かないのである。
★降らぬ雪昭和も遠くなりにけり(謝楽斎)
明治はおろか、大正も昭和も平成のいまからみればはるかに遠い存在となった。地球温暖化の波に乗って、冬でも北国に雪が降らなくなった。降っても昔日のおもかげはない、と住民は口を揃える。昭和四十年代だったか、ある乳業会社のCMに「世の中変った、紅茶にxxxx」というのがあったが、以来世の中の変化は加速するばかりである。本書は「大正(ご遠慮)デモクラシー」にみられる政治向きの話から、「ふみ書きふり」の「ひと筆しめしあげまいらせ候」の日常に使われた文章に至るまで、談論風発、戦前の庶民生活の詳細を記して倦むところがない。誰しも覚えがあるだろうが、三つ子の魂百までも、というのはほんとうで、齢を取れば取るほど、こどものときのことは忘れられないものなのである。
【それはさておき】
 評者は九州新幹線が、二〇〇四年三月に鹿児島中央新八代間で開業してすぐ乗りにいった。新幹線の「つばめ」ばかりではなく新幹線に連絡する在来線の特急列車(博多・新八代間を結ぶ特急リレーつばめ号)を含めても、JR九州の列車デザインは座席やカーテンの材質に至るまで、列車内外ともに筆舌に尽くし難いほど素晴らしく、他のJR各社の遠く及ぶところではない、と感心して帰ってきた。その後もまだ発行が続いていた著者が主宰していたインテリア雑誌「室内・創刊50周年記念号・平成十六年(二〇〇四)一月号」をあとから買った。その号には「話題の乗り物とホテルのインテリア」という記事が載っていて、ぬかりなくJR九州の新幹線・つばめの紹介記事がカラー写真入りで載っていた。雑誌の「編集兼発行人」で本書の著者であった山本夏彦が世を去ってから二年が経っていたが、この雑誌はきちんと「新幹線つばめ号」のすぐれたインテリアをデザイナーの名前とともに紹介していた。直後に山本夏彦の後を襲って「室内」を引き継いだ著者の長男・山本伊吾氏は、「創業50周年までは続けたい」との創業者の意志を継いで上記の50周年記念号を発行したのちに「天寿を全うさせる」かたちで雑誌の発行を止めた。いまは単行本のほかに、戦前の森羅万象に明るかった山本夏彦の匂いを残す雑誌はなくなった。□