tokyokidの書評・論評・日記

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書評・日本人とユダヤ人

tokyokid2007-04-02

書評・★日本人とユダヤ人(イザヤ・ペンダサン著)角川文庫

【あらすじ】
 匿名の「イザヤ・ペンダサン」氏が書いた、他に優れた日本の文化評論である本書は、本稿の底本とした角川文庫では昭和46年(一九七一)9月30日初版発行、とある。それは敗戦から四半世紀経った、日本経済が高度成長を誇っていた頃であった。ユダヤ人を通じて日本人をあぶりだす著者のこの手法が、この本を成功に導き、当時のベストセラーのエッセイとなった。内容は洒脱にして明快、啓蒙的にして比較的であり、敗戦直後人口に膾炙したベネディクトの「菊と刀」以来の日本人に関する「大」比較文化論であるということができる。この本の目次は;

はじめに
1. 安全と自由と水のコスト(隠れ切支丹と隠れユダヤ人)
2. お米が羊・神が四つ足(祭司の務めが非人の仕事)
3. クローノスの牙と首(天の時・地の利・人の和)
4. 別荘の民・ハイウェイの民(じゃかたら文と祝砲と西暦)
5. 政治天才と政治低能(ゼカリヤの夢と恩田木工
6. 全員一致の審決は無効(サンヘドリンの規定と「法外の法」)
7. 日本教徒・ユダヤ教徒(ユーダイオスはユーダイオス)
8. 再び「日本教徒」について(日本教の体現者の生き方)
9. さらに「日本教徒」について(是非なき関係と水くさい関係)
10. すばらしき誤訳「蒼ざめた馬」(黙示録的世界とムード的世界)
11. 処女降誕なき民(血縁の国と召命の国)
12. しのびよる日本人への迫害(ディプロストーンと東京と名誉白人
13. 少々、苦情を!(傷つけたのが目なら目で、歯なら歯で、つぐなえ)
14. プールサイダー(ソロバンの民と数式の民)
15. 終りに・三つの詩
あとがき・末期の一票

・・・・・となっている。目次を一読しただけで、内容の豊富さを思わせる。
【読みどころ】
 日本人とユダヤ人の政治に対する姿勢の違いを記した第五章・政治天才と政治低能(ゼカリヤの夢と恩田木工)を読めば、著者が本書で明確にしようとした意図するところは明らかであろう。ほかにも第一章・安全と自由と水のコスト(隠れ切支丹と隠れユダヤ人)から取られたところの「安全と水はタダではない」という言葉が当時の流行語となった。我が国には俗に「人の振り見て我が振り直せ」という格言もある。下記するように、本書に書かれたユダヤ人の振りをみて、われら日本人が今後のわれらの振りにおおいに参考になる部分が山積しているのが本書なのである。
【ひとこと】
 アメリカのニューヨークは、(ユダヤ人が多いので)ジューヨークではないか、というよく知られた小話があり、また有史以来ユダヤ人は「けち」で有名であった。いわく「カネしか信用しない」「親子の間でもカネの存在を明らかにしない」などである。でも第二次世界大戦後初めて「イスラエル」という自分の国を持つまでは、二〇〇〇年近くにわたって自国を持たないがために世界中に散らばって漂流し、他国で生きるしかすべのなかったユダヤ人にしてみれば、頼りになるのは(自分以外の人という意味で「他人」ではなく)カネだけであったことも事実だろう。いまでは世界の富裕層はユダヤ人で占められるといっても過言ではなく、その事実は、アメリカの証券・銀行など金融機関の名称を一瞥するだけで充分に納得されるであろう。一方日本も第二次世界大戦(太平洋戦争)の敗戦後、国民が大いに発奮していまや世界第二の経済大国と呼ばれるほどにカネを溜め込んだが、俄か成金の日本と、二〇〇〇年間の筋金入りの金持ユダヤ人とでは、その実力の差というものは、いまや「尻尾が犬を振り回している」と評されるアメリカの対イラクや対イランの中東政策を見ていればわかる。いまやアメリカの国策はユダヤ人「または/および」イスラエルを抜きにしては考えられないのだ。つまりアメリカに対するユダヤ人の影響力には絶大なものがあるが、日本のアメリカに対する影響力のなさというものは、今回の北朝鮮に対する六カ国会議の帰趨に見るごとく、極めて限定的でしか有り得ない。蛇足を付け加えれば、その意味で今後日本の進むべき道を示してくれたのがユダヤ人であると信じて間違いはないのではないか。第二次世界大戦で、当時リトアニアの日本国総領事であった故人の杉原千畝が、外務省本省の指示に背いてまで欧州からアメリカに亡命を図るユダヤ人に「命のビザ」を発給し続けて、いまなお同氏を徳とするユダヤ人が多数アメリカに存在することを考えれば、(戦後外務省から無視され続け、名誉回復が遅れに遅れた)故・杉原千畝こそが、外務省などといういまや省益を追及して国益を追及しない官庁として有名な組織と違って、たとえ個人という弱い存在であったといえども、日本の国益に資するところ大なるものがあったのではなかったか。故人のその国益を増進するところの重大な事跡を自国の資産として捉えることができないのが、国民としての日本人の限界なのである。
【それはさておき】
 日本人ほど外国人が自国または自国民のことをどう評価しているかを気にする国民はない。この現実は日本の書店の店頭を一瞥すれば明瞭である。また外国人の言うことは無条件に信用するが、自国の民である他の日本人が言うことには一顧だにしない日本人が多いことも、他国事情とは大いに異なる点である。このことは、日本国および日本人にはとかくプリンシプルが欠落しているという事実と無縁ではないと考える。本書のようなすぐれた比較文化論を読んでも、日常生活に反映できない日本人は、著者イザヤ・ペンダサン氏が称するところの「政治低能」(第五章)に当るのではないか。ちなみに、著者の「イザヤ・ペンダサン」氏は、評論家の「故・山本七平」氏であったというのが、こんにちの定説であろう。本書の内容は、二一世紀のこんにちでも、まったく古くなっていない。□