tokyokidの書評・論評・日記

tokyokid の書評・論評・日記などの記事を、主題に対する主観を明らかにしつつ、奥行きに富んだ内容のブログにしたい。

書評・ある明治人の記録

tokyokid2007-03-05

書評・★ある明治人の記録(石光真人編著)中公新書

【あらすじ】
 副題に「会津人柴五郎の遺書」とある。柴五郎は安政六年(一八五九)会津若松藩士であったところの二四〇石・物頭・柴佐多蔵の五男として生れた。昭和二十年(一九四五)年十二月、第二次世界大戦で日本が敗戦・降伏した数個月後に八七歳で没。柴五郎は一〇歳のとき、戊辰戦争会津若松城落城の際祖母、母、姉妹を自刃で失い、その後配流先ともいえる青森県下北半島斗南で飢餓生活を送った。明治維新当時の「薩長土肥」政府から賊軍扱いされた会津藩士の後裔としては大逆境から身を起こし、異例の陸軍大将・軍事参議官にまで昇り詰めた人格高潔にして努力の人であった。後に日本屈指の中国通として知られる。晩年引退して一介の「翁」となった柴五郎が少年期の記録として書いた手記をもとに、編著者の石光真人が多少の手を入れて完成したのがこの書である。主人公の柴五郎と編著者の石光真人とは父親の代から浅からぬ因縁があり、それが発端となってこの手記が(いわば編著者によって)発掘された。その経緯は、本書最後の章「柴五郎翁とその時代」に詳しい。本書は「はしがき」に当る編著者の「本書の由来」から始まり、続いて本文の「第一部・柴五郎の遺書」「第二部・柴五郎翁とその時代」の構成で、最後に編著者の親切の「柴五郎氏の略歴」から成る。主人公・柴五郎の手記は「第一部」だけで、あとは編著者の説明であり、この説明がなければ、読書子はこの文書の内容と時代背景を同時に理解することは至難のわざであったはずだ。著編者の労作である。
【読みどころ】
 編著者も冒頭の「本書の由来」で語るように、本書の内容は全文を読み下す以外に、短文で説明できるものではない。だが評者は、この本は日本国民必読の書であると信じるが故に、浅学非才を顧みず、あえて書評のかたちにまとめようと試みている。言えることは、ときあたかも明治維新の大革命のさなかに起こったことを、正真正銘の武士の子であった本書に書かれた柴五郎の生涯を辿ることによってよく理解できるし、またこれが日本最後の「武士道」の発露であった、ということだ。このあと柴五郎のような維新の敗者側も、薩長土肥の勝者側もともに参加して日清・日露の両戦役が闘われ、さらに支那事変から第二次世界大戦(太平洋戦争)へと、薩長土肥主導の政府によって、日本は国家滅亡の淵に向かって突っ込んでいく。日清・日露戦争のころは、巷間伝えられるように、まだまだ武士道の発露といえる行動が日本軍にあった。それが第二次世界大戦では、戦略も戦術もない「大東亜共栄圏」なる幻想だけで、薩長土肥を起源とする当時の日本政府は、後世に交戦国や周辺国から指弾されるところの(武士道からみれば考えられないところの)無軌道な行動によって、国家の品格を落としていく。挙句の果てに敗戦となって日本を滅亡させる(それでも敗戦を終戦と言い換える神経の太さはどうだ)。第二次世界大戦でも武士道の発動はあったかも知れないが、それは局所的なごく一部分に留まる。あのときは、指導者層も国民全体も、政府の発する種々のスローガンに惑わされて、つまり幻想を抱いたまま「一億火の玉」となってやみくもに現実に対処したことで、回復困難な痛手を蒙った。戦後の経済成長は日本におけるモノこそ豊かにしたが、武士道に代る精神面での支柱はついに発明されないまま平成の今日に至った。教育にしても犯罪にしても信条にしても、立法にしても行政にしても司法にしても、目標なき混乱が日本社会で果てしなくいまでも続いている事実を、何人も否定し得ない。
【ひとこと】
 一〇歳のとき会津若松城落城と、何人もの家族の戦死や家を焼かれ、財産を奪われ、強殺強姦が横行した会津の町(本書第一部「殉難の一族郎党」から)を目の前にした柴五郎少年が、その後父親に連れられて酷寒の地・下北半島に移り、食うものがないとて「犬の肉」を食わざるを得なくなり、気味悪くて食う能わざる柴五郎少年を父君が「武士の子であることを忘れたか。戦場で食うものなければ、犬猫であってもこれを喰らい、戦い続けなければならないものだ」と叱る場面(同第一部「地獄への道」から)は、涙なしには読むことができない。その後柴五郎少年は、青森県庁に給仕として出仕し、陸軍幼年学校、陸軍士官学校を経て頭角をあらわし、ついには(維新の賊軍とされた会津藩士としては異例の)陸軍大将にまで昇り詰めた。いまでも歴史の一ページに刻み込まれてある柴五郎の事跡としては、明治三十三年(一九〇〇)、北京駐在武官であったときに起こった北清事変(義和団の変)のとき、清国側の攻撃に北京の外国人留民は篭城して身を守ったが、そのとき柴五郎は守備隊の総指揮官として、敵軍にくらべてはるかに少数の日本軍を率いて、日本人のみならず各国留民の身柄の安全を図る役目を果たした。その柴五郎指揮下の日本軍の軍規の厳正なること、その前後に満州に攻め込んだロシア軍隊の略奪、強殺強姦などを目にしていた居留外国人からみて、日本軍こそ信頼に足るということで、各国人こぞって日本租界に移ってきたというほどの信頼ぶり、換言すれば柴五郎中佐のみごとな指揮ぶりであった。長い中国駐在の経験ゆえに、柴五郎はその後多くの中国人の友人を加え、軍の中国通として重きをなすようになる。
【それはさておき】
 歴史は勝者の側から語られたものが後世に伝わるのを常とする。本書の腰巻にも「維新の裏面史というべき会津藩の惨憺たる運命を赤裸に描く」とあるように、この書は明治維新の敗者の側である会津若松藩からみた、存在自体が稀有とされる真実の歴史の書でもある。ここには勝者であった「薩長土肥」側の「軽き者」がいかに思いあがった挙動を示したか、それに対して敗者側の「会津若松藩」の後裔が、どんな努力をして這い上がらなくてはならなかったか、読者は本書を読むことによって、歴史の表裏両面からみた「明治維新・歴史の真実」を学ぶことができる。世に真実はひとつしか存在しないのであり、作為は真実に劣ることはいうまでもない。歴史は繰り返すから、読者諸賢は、このパターンの亜流をいまの日本社会の至るところで目にすることができるだろう。□