tokyokidの書評・論評・日記

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書評・金持ち父さん 貧乏父さん

tokyokid2007-03-01

書評・★金持ち父さん 貧乏父さん(ロバート・キヨサキシャロン・レクター共著、白根美保子訳)筑摩書房

【あらすじ】
 副題としていわく、「アメリカの金持ちが教えてくれるお金の哲学」。一代で百万長者に成り上がった日系アメリカ人のキヨサキが、公認会計士のレクターとともに、現在の学校教育ではなおざりにされているといえる「おカネに関する教育」がほとんどなされてこなかった歴史的経緯を踏まえて、自説を展開した本である。この本は、レクターの「いまから子供たちに必要なこと」といういわば前書きに当る部分から始まって、キヨサキが主張する内容が「教えの書」「実践の書」とおおまかに二部に分けて語られ、そのあと共著者の「いますぐ行動しよう」というアピールで終る。内容はキヨサキ自身の父親と友人の父親それぞれの金銭に関する見解を、彼らの人生観、金銭観および金銭感覚を比較しながら得たキヨサキの「金銭に関する」考察内容を、学生の教育に使えるやり方で開陳してある。金銭取得の目的から始まってノウハウに至るまでが内容に含まれるが、「教育」という観点も含まれているという理由からだけでも、単なる金儲けの「ノウハウ」本とは明らかに一線を画すことができる。
【読みどころ】
 利息は悪である、という宗教がかつてあったし、シェークスピアの「ベニスの商人」にも「おカネは汚い」という一般常識があったし、日本では金持ちの町人に比較すれば経済的地位は間違いなく低かった(士農工商のトップである)江戸時代の武士階級の「武士は食わねど高楊枝」の意識もあった。このような金銭を否定的に見る見方は「おカネを否定的に受容・解釈・実践する風潮」ともいえるが、これは過去だけの話ではなく、現在に至るまで広く継承されている事実でもある。一方現実の生活に「おカネ」は欠かせないものであり、才能ある人が経済力を欠いたばかりに、社会のリーダー層に食い込むことができなかった物語も枚挙に遑がない。ならば「おカネ」は人生の目的たり得るのか。これは各個々人が考えるしかない命題であるが、では現実に自分が思うことを、実現するために経済上必要な量の「おカネ」を稼ぐにはどういう心構えで臨むべきか、そのあたりの考え方・やり方を具体的に著したのが著者のロバート・キヨサキなのである。見方を変えれば、本来流通の便を図るための「決済手段」として発明・普及されてきたであろう「通貨=おカネ」が、その後「保有目的」に変質していった歴史をどう考えるかを真剣に考える人にとっての、恰好の教材、恰好の参考書となるのがこの本である。
【ひとこと】
 著者のロバート・キヨサキは、当地アメリカでは本を出版するだけではなく、その主張する内容を全国ネットのテレビでも講演するほどのモテモテぶりなのだが、自分の金銭哲学を他人の、それも教育に使われるために開陳しようというだけあって、その見方には独特のものがある。たとえば、経理の書類を扱ったことのある人なら誰でも知っている「資産」と「負債」について、「資産と負債はここが違う」として、キヨサキはこう言う。「資産は私のホケットにお金を入れてくれる・負債は私のポケットからお金をとっていく」。この見方は、自分をその口座の主人公としてみれば目新しいものではないが、キヨサキは続けて言う。「金持ちは資産を買う・貧乏人の家計は支出ばかり・中流の人間は資産と思って負債を買う」。この最後の「資産と思って負債を買う」のくだりでキヨサキは、「ローンを起こして家を買った人は、それで自分の資産が増えたと思っているかも知れないが、じつは自分の負債が増えたのであり、そのことを認識しなければならない」と解説する。なるほど、である。以下は評者の考えであるが、上記の「金持ち」「貧乏」「中流」の区分は、所持する通貨の量に関して区分しただけのことであって、その人の資質にはなんの関係もないことを理解しなければならない。つまり「お金持ち」は別に「エライ」わけでも「成功者」であるわけでも「幸福」であるわけでもなく、単に「お金を持っている人」というだけの意味の単語なのだ。その解釈を間違うと人生の方向も間違うことになり兼ねない。
さて、自分の人生におカネをどれほど関与させるか、ということを人はまず決めなくてはならないだろう。最近の日本で問題になる一部の風潮のように「おカネがあればなんでもできる」という考え方もあるだろうし、正反対の考えもあっていい。だが大多数の人は「おカネは生きていくのに必要なだけあればいい」と漠然と考えているのではないだろうか。じつはこの本を読むまで、評者もそう思っていた(もちろんその程度をどう考えるかによって、必要なおカネの量が決まるわけであり、それはその個人によって千差万別なわけだ)。だからもし大事業を興すことがその人の目的であるならば、天文学的数字のおカネを必要とするだろうし、妻子を養っていくのに足るだけのおカネがあればいいと考えれば、いまの給料で賄える範囲のカネの量で済むのかも知れない。となれば、あなたはこのロバート・キヨサキと同じ立場に立っておカネのことを考えるのが、一番理に叶っているのかも知れない。
評者はかつて現役を引退して相当期間経つ友人にこんな話を聞いたことがある。彼いわく「昔の学生時代の同窓会に出席して、引退後いまなにをしているかという話になったら、八割方不動産屋の真似事だったよ」。彼によると、これらの「不動産屋の真似事」をしている友人たちというのは、例外なく資産持ちでいわゆる「おカネには不自由しない人たち」であったとのことだ。不動産投資は、キヨサキもこの著書のなかでも言及しているお金を増やす手段のひとつであるが、そこまでして「金持ち父さん」になるかどうかは、その人の人生哲学に依るところ大であろう。
【それはさておき】
 キヨサキの著書に書いてあるわけではないが、欧米に伝統的な考え方として「ノブレス・オブリージ」がある。訳せば「貴人の義務」ということであろうか。だからアメリカン・ドリームを実現して「金持ち父さん」になれば、自分の信ずるコミュニティや宗教団体や学校などに応分の寄付をし、その行為が社会的に認められるのがアメリカの社会である。それと違って日本では、功成り名遂げて「金持ち父さん」になっても、寄付などしないか、しても匿名で表に出ることを好まない人たちが多い。だいたい日本の税制もそのような寄付行為を推進するようにできていない(アメリカでは寄付金は一定の条件の下に所得から控除できるが、日本の税制ではそのような特典はほとんど望めない)。となれば、日本で「金持ち父さん」になるのは、自分と自分の家族だけを利する行為であって、前提条件として自分の財産(の一部)を社会に還元することが、まだ社会全体の同意を得た「利他行為」としておおやけに認められているわけではない現状に留意すべきだ。これは日本で長い間続いた、中産階級が社会の大多数を占めてきた現象の結果であり、とりも直さず経済成長のころの世論調査で、自分は経済的に中位であると考える人が八割にも及んだという事実が裏書する。故橋本首相時代に、日本は「ビッグバン」に大きく舵を切り換えた。ということは日本の経済パターンは以後当然アメリカ型に移行せざるを得ず、だからこそ「おカネはすべて」と思う層が増えたのだろうし、その現象を理解することはできる。問題は日本に「ノブレス・オブリージ」の考え方がいまだ根付いていないことで、その間稼ぐほうはアメリカ方式で稼ぐにしても、稼ぎ過ぎた人が社会に還元するシステムのほうは、これからどのように整備するのか、またはしないのか、行政の見識・手腕が問われるところであろう。
もうひとつ、この本でいうようにおカネの持つ意味を学生に教えるということが、日本では果たして意味を持つかどうか、よく考え、よく議論する必要がある。なにしろいまの日本の大学では、九九のできない学生がいるということだから、そのような学生にカネの持つ意味や稼ぎ方を教えても、本人は戸惑うばかりではないだろうか。□