tokyokidの書評・論評・日記

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書評・眠る盃

tokyokid2007-01-11

書評・★眠る盃(向田邦子著)講談社文庫

【あらすじ】
 この文庫本に収録されているエッセイは全部で59編あり、それが三部に分かれている。つまり「一般エッセイ」「特定の人物を配したエッセイ」「男性鑑賞法と称する特定の有名男性に関するエッセイ」という構成になっているのだ。ここで取り上げる「眠る盃」は第一部に属するうちの一章なのである。人間の生活は「勘違い」から成り立っている、と喝破したのは池波正太郎だったが、この「勘違い」を正面から取り上げて、しかも作者の父上から妹ごなど肉親を登場させて膳立てを整え、その家庭全体の姿を、読者にさもあろうかと思い込ませるまでの達者な筆遣いである。また文中に(戦前)昭和初期の世情・雰囲気をふんだんに盛り込んで、この短編エッセイは歯切れよくまとめられている。
【読みどころ】
 この作品は、文庫本でたったの3ページ、原稿用紙6枚ほどの小品である。だがこの小品のなかに、練達の文章師・向田邦子の文章作法のすべてが凝結されている。作者はこの短編のなかに、難解な字句は一切使わずに、物語の筋を追いながらも、昭和初期の世相や家庭の事情というものを巧みに盛り込んで見せる。短い文章のなかに、向田世界とでも称すべき内容が構築されていて、読者は二〇〇七年の現在このエッセイを読んでいても、心は自然に戦前に飛んで、その世界に引き込まれてしまう。「眠る盃」と聞けば、読者は土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲の名曲「荒城の月」の一節であるところの「巡る盃」のことか、あるいはそれに関係したことが書いてあるのだろう、というくらいのことは、読む前から見当がつく。なるほどその通りなのだが、導入部分から始まって「巡る盃」が「眠る盃」に至る前半、それに「夜半の月」を「弱の月」と読み違えるというオチまでつけて、向田邦子は私たちに「エッセイというものはこうして書くのだ」という見本を見せてくれる。もっともこれはほかのエッセイ、たとえば「父の詫び状」「あ・うん」(以上2冊は文春文庫)「思い出トランプ」(新潮文庫)そのほか多数の彼女の傑作エッセイについても等しく言えることではある。エッセイ作法の教科書として、これ以上のものは見当たらないのではないか。
【ひとこと】
 放送作家向田邦子は、昭和四年(1929)東京生まれ、作家としてますますの円熟度が期待される昭和五六年(1981)に航空機事故で亡くなった。放送作家としては「だいこんの花」「寺内貫太郎一家」などのテレビドラマが好評を博した。直木賞の受賞(第83回・1980)もあり、前述のとおり多数のエッセイを書いてこれまた好評だった。だいたい女性に日常茶飯事を描写させれば、男性の遠く及ぶところではないのが普通であるが、とくに向田邦子の場合は、昭和ヒトケタそれも前半生まれの強みを生かして、戦前の日本人の生活ぶりを「微に入り細を穿って」作品に書き込んでみせる。その内容・その描写が広範・豊富かつ精確であることは、何人も異存はないであろう。世の中には、ずば抜けて記憶のいい人が居るものだが、向田邦子の記憶力も、多分に「グラフィック・メモリー」で、ひとつひとつの事象を全体から部分まで、絵として脳裏に刻み込み、それを必要に応じて取り出して作品に盛り込んでいったとしか思えない、抜群のものであった。要するに頭のいい人だったのだ。それに加えて女性特有のものの見方がうまく作品のなかに散りばめられている。長編とくらべて短編は、盛り込める字数が少ないだけに書くのが難しいと洩らす作家が多いが、その困難な事業を、女性の向田邦子はさらりと実現して、われわれ読者の目の前に突きつけて見せてくれる。世に短編の名手として名高いモーパッサン(仏)やO・ヘンリー(米)、国木田独歩志賀直哉(日本)などにくらべても、女流の向田邦子は一歩も退けをとっていない。重ねていうが、向田邦子放送作家であったが、同時に短編の名手でもあった。
【それはさておき】
 私事で恐縮ながら、筆者は向田邦子に遅れること六年でこの世に生を享けた。たった六年の差なのだが、幼時の六年という時間差は、その人生にとって壁を圧するような差であるようで、私が記憶している戦前の昭和などは、向田邦子が作品に描く昭和にくらべると質量ともに紙一枚と本一冊ほどの開きがある。余談ながらこれを見ても、幼児に対する教育はいかに大切なものであるかがわかる。すなわち生れてから3歳か、せいぜい5歳くらいまでの期間の親の子に対する教育が、その子の将来の人生や生涯の方向を決定するぐらい大事なことであることを、容易に察することができる。
 閑話休題
 美人薄命というが、佳人もまた薄命である。向田邦子が、事故とは言え、50歳をちょっと超えたところで亡くなったのは、まことに残念なことであった。日本女性の平均余命が85歳の現在では、これは確実に若死の部類に入る。没後四半世紀経ってもなお数多くの愛読者を失わない向田邦子は、国民的な短編作家であったということができる。これまた余談ながら、手許の「コンサイス日本人名事典・改訂新版、第3刷、1996年3月10日発行」(三省堂編・刊)には、1981年没の「向田邦子」は記載されていない。手落ちではないか。□