tokyokidの書評・論評・日記

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書評・坊っちゃん

tokyokid2007-01-03

書評・★坊っちゃん夏目漱石著)岩波文庫、角川文庫ほか

【あらすじ】・・・・・省略。
【読みどころ】
坊っちゃん」を読んだことのない日本人はまずいないであろうから、あらすじは省略して話を進めたい。今回は、
角川書店漱石全集・第一巻〔昭和三五年(1960)発行版〕
岩波文庫版〔昭和四年(1929)第一版の二三刷〕
③ 角川文庫版〔昭和三十年(1955)第一版の六版〕
④ それに同じく角川文庫版だがさきの昭和三十年版を改版した〔平成六年(1994)七十六版〕
の四種類を読み比べて日本語表記の変遷を探った。
【ひとこと】
 結論からいえば、戦後文部省が制定した新かなづかいや当用漢字表は、明治以来の日本語表記を根本的に変えてしまった。もともと漢字の書きは固定されているが、読みはその地方に委されるのが伝統だ。古来漢字を中国から輸入した日本語に漢音と呉音の読みが併存することは、その証拠だ(余談だが、日本人がたとえば「金正日」を他国から「キム・ジョンイル」と読むように強制される筋合いはなにもないわけで、「キン・ショウジツ」と日本語読みをしても、表記が漢字で行われるかぎりなにもおかしいことはないはずだ)。その結果、現在の日本は漢字の使用法を展開する方向ではなく、制限する方向に進んでしまったといえる。つまり想像力が働く余地がせばめられてしまった。「坊っちゃん」各版における表記の違いを例示する。
① おれは何が嫌だと言って人に隠れて自分だけ得をするほど嫌な事はない。
② おれは何が嫌だと云って人に隠れて自分丈得をする程嫌な事はない。
③ おれは何が嫌だと云って人に隠れて自分丈得をする程嫌な事はない。(②と同じ)
④ おれは何がきらいだといって人に隠れて自分だけ得をするほどきらいなことはない。
 上記の差は「嫌」「きらい」、「言・云」「いう」、「丈」「だけ」、「程」「ほど」、「事」「こと」の五点である。いずれも以前は漢字で表記したものが、いまはひらがな表記になった。その結果はどうなったか。ひとつは「小学生でも」やさしく読めるようになった。もうひとつは「嫌」を「きらい」と読むか「いや」と読むかなどの自由度が失われた。もともと中国は「白髪三千丈」のお国柄である。そのうえ漢字は表意文字だ。この点表音文字の英語やドイツ語とは違う。漢字の読みを固定することは、漢字使用の用例を制限する方向にはたらくことは前述のとおりである。戦後使用漢字の字数を制限したことは、表記できる概念の数を減らし、豊かだった日本語の表現を痩せさせた、といえる。
【それはさておき】
 もともと漱石とほぼ同時代の樋口一葉の「たけくらべ」や「にごりえ」の現代語訳が出るご時世である。平安朝の「源氏物語」ならともかくも、明治の作家の文章がいま通用しなくなったことは明らかだろう。たとえば小学生が間違えるから、という理由で本来「ニスイ」であるべき「凉」を「涼」と改悪するなど、いまの日本は末代に伝える必要のある誇るべき文化をみずから否定しているに等しい愚行を官民挙げて推進しているのである。
(TVファン誌2003年3月号掲載原稿)