tokyokidの書評・論評・日記

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書評・朝日新聞の用語の手引

tokyokid2007-03-21

書評・★朝日新聞の用語の手引(朝日新聞社用語幹事編)朝日新聞社

【あらすじ】
 朝日新聞社が記者のために「分かりやすく正確な文章を書くために」つくったマニュアルの「表記の基準」に「用字用語」「外来語」「外国地名」「その他の資料」などを加味した文字通りの「用語の手引き」である。

【読みどころ】
「わたしは改まった文章を書くわけではないから関係ない」と思う読者がおられたらそれは間違いだ。この手引書には、常用漢字表、送り仮名のつけ方、現代仮名遣いから日本新聞協会新聞用語懇談会で合意された字種などを解説してあり、いま代表的な書き言葉の日本語として認められる日本の新聞の表記がどのような基準によるかが理解できる。戦前の「てふてふ」(蝶々)などの旧仮名遣いや、戦後もまだ常用漢字が運用されないころの「親譲りの無鐡砲で小供の時から損ばかりして居る」(夏目漱石・坊ちゃん冒頭)などの文章に慣れている人が、この手引書によっていま文章を書けば、一般に「読みやすく分かりやすい」現代の文章になることは請け合える。ただしその文章が書いた本人の性格や品格や風格や知識経験を表現しているか、さらに有史以来日本人が中国から伝来した漢字を中心にしてひらがな・カタカナを発明し、日本語表記に磨きをかけてきた歴史の重みに目をつぶり、ただ単に内容を分かりやすい日本語で書けばいいかというと、率直に言って疑問が残る。分かりやすい文章は所詮分かりやすいが味がない。そのような文章は、言ってみれば「ダシの効いていない味噌汁」のようなものなのだ。ただ「文章は分かりやすくかつ読みやすくありさえすればいい」と考えれば、この用語の手引書はまことに内容明快である。
【ひとこと】
 文章といえば最近はインターネットのeメールを使う方も多かろう。eメールでやりとりされる文章を、あなたは口語で書かれるだろうかそれとも文語で書かれるだろうか。明治以来日本語の口語と文語は一体化される傾向にあるが、昨今のeメールで使われる「くっちゃべり日本語」の文章化現象をみていると、つくづく敗戦後半世紀の間に、もとの日本では社会的に存在した「一線を越えない」合意がくずれてしまったことに気がつく。つまり「口語と文語」も「男と女」も「先生と生徒」も「上司と部下」も「晴れ着と普段着」も「夏と冬」も「ハレとケ」も、すべてその間に存在した越えてはならない「線」が消えてしまった。「なんでもあり」の社会、「自分の好きなことだけする社会」に変わってしまったのだ。正月でもアイスクリームを食い、茄子や胡瓜やトマトが出回る。そして皆が「自分の好きな文体で文章を書く」と他人には理解できない現象がでてきて、その解決法として「読みやすく分かりやすい」文章を書く必要性がでてきて、このような手引書が発行されたのだろう。
【それはさておき】
 1956年国語審議会報告「同音の漢字による書きかえ」に規定された代用漢字がしばしば問題になる(本書101頁)。漢字一字の例から「熔」を「溶」、「廓」を「郭」の書き換えを考えてみよう。かつて「熔接」と表記したが、そこには火を表す「火へん」が存在した。同様に「遊廓」も本来「まだれ」が建物を示していたがいまや「遊郭」となり、意味からみればおかしなことになった。日本は表意文字の漢字を意味違いで使うことを正式に認めるという愚を半世紀にわたって犯し続けているのである。
【ブログ版への追加】
「それはさておき」の続きを書く。ひとつは「外国地名の書き方」の項に「現地における呼称によりカタカナ書きとする」とあるが、私の住む近くの Los Angeles の表記は「ロサンゼルス」だと本書には示されている。でも現地の呼称により近い発音は「ロスアンジェルス」ないしは「ロスアンジェリース」であろう。日本人がまともにカタカナの「ロサゼルス」と発音した場合に大方のアメリカ人が理解できるとは限らない。新聞は活字の数が少ない方が都合がいいからこう決めたのかも知れないが、本来の趣旨からは外れてしまった。このような例はほかにもあると思われる。
 もうひとつ、本書には「差別語」に関する説明がない。だが新聞には「差別語」として使わない言葉の基準があるはずだ。その「基準」を説明してほしかった。なぜなら、どんな言葉でも、相手を貶める意味で使えばそれは差別語になるのであり、ある言葉それ自体を差別語として分類することは、不可能ではないにしても適当でない場合が多々あるからである。こういう場合、新聞記者はなにをよりどころにして「差別」であるか、ないかを識別しているのか、その基準を示してほしかった。これらの日本語の「用法」を過度に規制するということは、日本語としての表現の自由度を制限することにつながり、ひいては日本語の衰退につながるから、ゆるがせにしないでほしい。いっぽう明らかに差別を意識してある言葉を使うことは避けなければならないことであり、ならば「なにが差別か、差別語か」という「基準つまり線引き」を明らかにする必要がある。その点に関する新聞人の見解を解説してほしかった。
 最後に、漢字の読みについて特筆したい。もともと本場の中国でも、同じ漢字であっても発音はその地方によって異なるのはごく当然の現象である。日本の漢和辞典でも「漢音」「呉音」などとして区別されているのはその一例である。漢字は表意文字であるから、ひとつひとつの漢字は意味を持っているのだが、その発音はその地方の住人に任されている、ということだろう。いま日本は、外国に言われて、たとえば「金正日」を「きんしょうじつ」ではなく「キムジョンイル」と発音するように強制されているが、これはおかしい。なぜかというと、上述の如く、漢字で書けばその発音は本来その地方特有の読み方が当り前なのであり、漢字表記の「金正日」をなんと読もうが、それはその地方地方に任されるべきことだからだ。もし日本国が朝鮮語族から強制された現地読みを日本語でも表示・発音しなければならないとするならば、表示は漢字でなく片仮名にすべきなのだ。この法則を新聞は公然と無視しているのが現実であり、訂正されねばならない。この問題を素通りした本書の内容には、落胆させられた。□
(TVファン誌2003年7月号に掲載した原稿に「ブログ版への追加」を加筆)