tokyokidの書評・論評・日記

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書評・昭和史(1926〜1945)

tokyokid2006-10-12

書評・★昭和史・1926〜1945(半藤一利著)平凡社

【あらすじ】
 著者は1930年(昭和5年)東京・向島の生まれ。文芸春秋社に入り「週刊文春」「文芸春秋」の編集長を経て作家生活に入った。出版関係者が「学校で習わない昭和史の授業をしてほしい」という求めに応じて喋った内容を本にしたのが本書という。研究論文ではない“通俗”昭和史として、企画も内容も秀逸の出来栄えといえる。上下2冊のいわば「戦前・戦中篇」と「戦後篇」に分かれる。
【読みどころ】
 自身昭和を生き抜いた著者が、自身の経験も交えての「授業」だったから、歴史読物といっても、まだまだ生活実感が随所に溢れている。ここが単なる年鑑や年表による歴史の学習とは大いに異なるゆえんである。いま2006年だから、誕生日を過ぎていると仮定すれば、著者はすでに76歳。この年代がこの世を去るころ、戦前・戦中の昭和史は完全に歴史と変わるのだろう。それまでは、少なくとも現在古稀を過ぎた者たちにとっては、この時代は自分の人生の一部であり、歴史というよりは生活の分類に入る内容なのだ。それを資料によって補強し、昭和の誕生から日本開国以来の経験である敗戦までの昭和史を、誰にでも分りやすく解説したのがこの本なのである。
【ひとこと】
 歴史に「if」はない。でも戦前の日本はなぜ世界の半分以上を敵に回して戦う気になったのか、戦争の契機となった旧満州はどのような状態だったのか、なぜ旧陸軍を中心とする軍部が独走して張作霖爆殺事件や盧溝橋事件を起こしたのか、また反枢軸国といわれた英米仏露中(プラスその他同盟諸国)を相手に回していまから思えば勝ち目のない枢軸国の日独伊(だけの)の三国同盟を結ぶに至ったのか、いったい当時の日本政府はなにを考えていたのかまたはいなかったのか、勝算があって開戦に踏み切ったのか、日本軍はどう戦ったのか、戦闘の局所的現象とはいえなぜ国際法にもとる市民や捕虜に対する暴行・虐殺をしてしまったのか、また同じことが国内でも起こってしまったのか、開戦後の満州は、南方は、北方は、東亜共栄圏に代表されるアジアはどうだったのか、またこれらの伸び切った戦線で戦う日本軍の補給はどうだったか、その結果日本の一部である沖縄でどのような戦いが戦われたのか、そして満州にいた満蒙開拓団といわれる一般市民がどのように現実の戦争に巻き込まれていったのか、そしてその経過の各時点に於て、肝腎かなめの日本国民はどう考え、どう反応していったのか、天皇家の関与はどういう形でなされたのか・・・そして戦後61年経ったいまでもまだ未解決の北方その他の領土問題はどうして起こったのか、などの当時激動する日本の20年間を息もつかせず読ませる。本書によると、この戦争による死者は、戦死者約48万人、沖縄約11万人、日本本土空襲では約30万人、日ソ一週間戦争を含めて日中戦争約41万人、そして最近の調査によれば、この戦争に係わった死者は全部で約310万人だという。これだけの犠牲を払った歴史上の事実から、いまの日本人は当分「歴史から学ぶ」原材料に事欠かないはずなのだが、わたしたちはこれらの事実から将来の教訓をほんとうに学び取っているといえるだろうか。それにしても「政府」というのは「行政府」ということであり、行政が政策を誤れば国民は塗炭の苦しみを嘗めなくてはならない。いまの政府は、行政は、政治家は、役人は大丈夫だろうか、と現状を見直すためのきっかけに本書を読むことは国民的必要条件といえる。
【それはさておき】
 信じられないことだが、いまでは日本とアメリカが戦争した事実を知らない世代が育っているという。最近のここアメリカでも、日本からの留学生のなかに、戦時中の日系アメリカ人が強制収容所(Concentration Camp)に集められて市中に住むことが許されなかった事実すら知らず、「アメリカが日本人に対してそんなことをするはずがない」という者もいると伝えられる。歴史を直視しないのは亡国の兆しだ。いまどきの文部科学省は、すでに歴史になった戦前・戦中の事実すら児童・学生に教えないのはどういう魂胆によるものか、国民の一人としてよく見極めていかなくてはならないと思う。□