tokyokidの書評・論評・日記

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書評・社長の椅子が泣いている

tokyokid2006-09-25

書評・★社長の椅子が泣いている(加藤仁著)講談社

【あらすじ】
 この本の主人公・河島博は46歳のとき、生え抜き社員として日本楽器製造(ヤマハ)の最高の地位である社長に登り詰め、その後当時のヤマハの実力会長だった川上源一に突如解任される。ヤマハを去った河島博は、当時日本最大の小売業だったダイエー中内功に同社副社長として迎えられ、子会社だった倒産企業・リッカーミシンの再建に当たり、見事成し遂げる。その後の経過を含めての「河島博のサラリーマン社長」ノンフィクション一代記。よく知られた偶然ながら、ヤマハのライバル企業であるホンダの2代目社長・河島喜好は博の実兄。
【読みどころ】
 一介のサラリーマンではあっても、才能と実力に恵まれた男が身を粉にして働き、会社の業績に対する寄与もなみなみならぬものがあったとき、時の経営者はその大功労者をどのように遇するか、ひとつのケーススタディがここにある。同業者グループともいえるヤマハやホンダやスズキを生んだのは、気候温暖で知られる静岡県遠州・浜松の地である。よくいわれることに、遠州人はせっかちで新しもの好きで独創性に富んでいる、というのがあるが、その遠州出身で遠州気質つまり同郷者の経営者とサラリーマンがぎりぎりのところでぶつからざるを得なくなったとき、上に立つものは下のものをどのような目で見、どのように処遇しようとするか、日本企業ならどこにでも見られる一典型をここでも見ることができる。もともと紀州人・山葉寅楠が遠州で創業して、そのあともずっと遠州で操業を続けたヤマハと、遠州人・本田宗一郎が創業しながらも早くから東京に進出していま世界有数の大企業にのし上がったホンダとどこがどう違うのか、経営本質的にも日常業務的にもヤマハとホンダはどう違う企業であるのか(本書にその差異が示されているわけではないが、巷間伝えられる虚実とりまぜの伝聞などによる知識・経験をもとにして自分で考えながら)その辺の比較を考えながら読むといちだんと興趣をそそられる。簡単に言ってしまえば、会社は社会の公器であるから世襲はさせないとして、実弟や息子を含めて親類縁者を最終的には会社に寄せ付けなかった本田宗一郎と、創業者の後で、大いにもめた当時喧伝されたところの労働争議の後始末に他社から引き抜かれ、その後ヤマハの実力者に据わって辣腕を振るった川上嘉市とその子息・川上源一、さらにそのまた子息の川上浩につなげた川上一家の世襲願望とが、本田と川上両経営実力者の(片方は創業者であり一方は中興の祖の息子である違いはあっても)経営に対するものの見方、DNAの差を表して興味深い。さらに後段ダイエー中内功・潤も加わって、これら実力経営者たちがプロパーの仕事人・河島博に与えた影響こそが、このドキュメンタリーの主題なのだ。
【ひとこと】
 会社の経営といえども人間の営みである以上、実力だけの奇麗事では済まず、政治も入るだろうし、欲望も権謀術数も渦巻く世界であろうことは部外者にも想像がつく。まして終身雇用が当然だった当時の日本社会にあって、ある会社に入社したもののうち、定年までに部長職を務められるのが何百人に一人、社長職に至っては何千人・何万人に一人、というのが現実であろう。人間に寿命がある以上、社長なら社長の世代交代は避けて通れない命題であり、その際になにが新社長の必要条件であり充分条件であるのか、その基準があいまいであればあるほど、人心を収攬するのが難しくなる。川上源一の、また中内功の河島博に対する処遇を通じて、ここにもそのやり方の一典型を見ることができる。評者が一番仰天したのは、あの大企業のダイエーに組織表がなかったと知ったときだ。組織表を作っても、できる頃にはもう組織が変わっているから意味がない。組織表は自分の頭に入っているからそれでいいんだ、という中内功の哲学があったのだろうが、正確な現在を無視してまだ到来していない将来を論ずることの無意味さを、この人が理解していなかったはずはない。これはいったいどういう現象だったのだろうか。
【それはさておき】
 それにしても、ダイエー中内功も、子息の潤に、自分一代で無から作り出したところの、一時は日本最大の流通企業であったダイエーを譲り渡そうとした。本人にその能力があるなら、それはそれでいい選択かも知れないが、ない場合は見るも無残な結果に終るのが世の常だ。そんなことは百も承知のはずのダイエー中内功が、またヤマハの川上源一が、とても適材適所とはいえないと周囲が見ているその子息たちを、強引に自分の後釜に据えようとした事実と考え併せて、あれほどの大企業の経営者といえども、この点に関して考えていることは駅前商店街のオヤジとまったく変わらないことを知る。部外者はそれで済むが、社内で自分の生涯を「全身全霊」すべて捧げて(終身雇用というのはそういうことだろう)社業に励む「創業者や実力経営者の身内でない」者は、その働きに対してどのような報酬を受取るのか、考えさせるものがこの本にある。これこそが本書の主題であるわけだが、この本を読んだ評者の知人の(一種の自由業であるところの)ある臨床医師は、ひとこと感想を洩らした。「サラリーマンという宮仕えの職業は、自由業と違って悲しいね。私はサラリーマンでなくてよかった」。評者としては、その後のヤマハダイエーから、浩や潤が姿を消したという事実だけで、救われたような気分になる。企業の最終目標が永遠の存続であるとすれば、その助けにならない者は、創業者や実力経営者の係累といえども、ほんらい企業にとっては必要ないものなのだ。さて、読者諸賢は、本書を読んでどのような感想を持たれるだろうか。(文中敬称略)□