tokyokidの書評・論評・日記

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書評・NOK50年の軌跡

tokyokid2008-04-22

書評・NOK50年の軌跡(NOK株式会社・発行)大日本印刷株式会社年史センター・制作

【あらすじ】
 本書は一九九一年三月に創業50周年を迎えた同社が、一九九三年三月に発行した「創業50周年」を記念した社史(非売品)である。この頃の日本はバブル時期の真っ最中に当る。創業は昭和16年ということだから、日米開戦の年であった。同社の源流はふたつの会社に遡ることができるが、その2社が次第に統一されて、戦後に大きく花開くことになる。もともと同社は「日本オイルシール工業株式会社」として知られていたが、昭和60年(一九八五)に至ってNOK株式会社に改称し、現在に至る。同社の製品はかつて「油止(ゆし)」と呼ばれた「機械類各部に注入された潤滑用の油を、その機械内に密封して外部に洩らさないための部品」の製造・販売からスタートして、戦後日本の経済高度成長期に、関連の部品を中心に製品群を大きく拡大した。「油止」は、自動車・建設・産業機械ほか、使用範囲がすこぶる広い機械部品である。いまや同社は日本を代表するだけではなく、世界有数の密封部品を中心とした部品メーカーとなった。ついでながら「油止」は戦後しばらく経って、当社がカタカナを使った新社名「日本オイルシール工業株式会社」を名乗るに及んで、一般的な呼称も「オイルシール」へと変っていった。
【読みどころ】
 本書にも8頁にわたる目次があり、内容は「第1編・本史」「第2編・多角化と国際化の歩み」「資料編」に大別される。「本史」の中味は年代別にその特徴をとらえた題名から成る4章である。なかでも特記すべきは、一九五二年(昭和27)以降副社長、社長、会長、最高顧問など同社の最高役職を次々に歴任し、さらには関連の日本自動車部品工業会会長をも務めた鶴正吾が同社中興の祖である、ということだ。同氏は既に故人であるが、もし同氏なかりせば、日本の密封部品業界は、これほどの強力な企業を生み出し得たかどうか。戦後の日本は、世界でも例を見ないほどのスピードで高度経済成長を成し遂げたが、部品業界にあってのひとつのケーススタディを本書によって辿ることができる。当社は本書の第2編で「多角化」と「国際化」を謳っているが、多角化といっても最初は本来の事業関連の域を脱することなく先進の技術を求めて事業の拡大を図り、また国際化のほうは、高度成長の初期に、当時世界でも進んだ密封技術を持っていたドイツ(当時は西独)のカール・フロイデンベルヒ社と資本提携を結ぶなど、事業の拡大を図るに当って、経営手法に堅実さをも忘れなかった。現在でもカール・フロイデンベルヒ社は同社の筆頭株主であるが、このときもしアメリカの会社と提携関係を結んでいたらどうなっていたかを考察するのも、頭の体操としては面白い。なんとなれば、極端に言うとアメリカ企業は4半期ごとの成績を挙げなければ経営者のクビが飛ぶということであるから、日本の企業にとっては、むしろ長期計画を樹ててじっくりと企業の成長を図るヨーロッパのやり方のほうが、合弁の相手としてはるかに(アメリカの短期決戦方式よりも)経営の実情に合っているからだ。同社中興の祖が、当時このことを理解してその方向に舵を切ったかどうかは定かではないが、結果においてはそのようになった。評者はこの戦後期に同社の欧州系の会社と手を結んだことが、その後の当社の「安定的で」かつ「広範囲な」会社の成長を実現した原因となっているものと判断する。本書は、このあたりの推移を読み解くための絶好の資料となっている。
【ひとこと】 
 当社は戦後あれほど全国に労働争議の嵐が吹きまくったあとも、けっこう長い期間にわたって労働組合なしで過ごした会社である。中興の祖が「種とまと」の故事を持ち出してことごとに社員を説得したのが功を奏して、戦後長い間同社に労働組合はなかった。種とまとの故事とは、収穫のなかから来年収穫の種になるとまとを今年食べる分を減らして残した、という美談であり、長い間同社の「社報」の題名であった。つまり会社の従業員は今日の報酬ではなく、明日花を咲かせるための種を努力して残そう、そのためには今年の食い分を我慢しよう、という趣旨であった。同社に労働組合ができたのは、社史によると一九六五年に総評系の労働組合が参加員4名で結成され、そのあと連合系の労働組合にグループ会社を含む全従業員が参加して結成された、とある。評者はこの事実を、戦後すぐの日本社会貧窮時代には場合によって「精神論」も通用したが、高度経済成長期にあっては、従業員も社会一般なみの自分の分け前を求めることに急となった「分け前論」の実情を見てとる者である。一九九〇年代に日本経済のバブルがはじけてから久しい現在の無力化した、または無力化された労働組合及びその指導政党の活動の凋落ぶりと比較すると、まことに感慨無量のものがある。また経営面では、社史に明らかなとおり、同社は一九五〇年(昭和25)の2社合併による「日本オイルシール工業株式会社」の発足に伴い、中興の祖の発議になる、4期に分かれた「経営10ヵ年計画」を立案・実行する。その後同社は「3ヵ年計画「9ヵ年計画」「6ヵ年計画」「5ヵ年計画」などと、矢継ぎ早に計画を樹ててはそれを実行していく経営手法をとるようになる。いまでこそ会社経営の手法として当り前の「年度計画の立案実行」を、戦後間もない昭和25年に初めて「10ヵ年計画」を立案してかつ実行していたということも、この中興の祖の先見性を物語るものだ。ただし変転めまぐるしい平成のいまでは、10ヵ年計画はもとより、実際には3ヵ年計画などの長期計画を立案することも、その会社の実情によってはもはや困難なこともあろう。時代は明らかに変ったのである。
【それはさておき】
 当社は戦後急成長して世界有数の企業に育ち上がった「部品」会社として、いろいろな面で後学の参考となる事例を残しており、それが社史にも記録されている。前述した「経営計画」もさることながら、「新製品の開発」においても手堅さを発揮し、あくまでも「密封部品」を基本として関連する部品に手を伸ばしていく手法を採用した。また当時の日本の工業全体が「重厚長大」型から「軽薄短小」型に転換していった事実に伴った実情にも同社はうまく追随したといえる。戦後の電子部品は(従来の機械部品を押し退けて)一段と早くて高い高度成長を遂げた分野だが、同社はタイミングよくこの分野にもいち早く参入して、後のさらなる発展を遂げる基礎を作った。子会社の「日本メクトロン株式会社(フレキシブル配線板・非上場)」や「NOKクリューバー株式会社(特殊潤滑油・同)」などがその例である。私事ながら、この社史の24頁に掲載されている同社中興の祖・鶴正吾の大学卒業写真に、評者の叔父・稲田龍一が並んで写っている。□