tokyokidの書評・論評・日記

tokyokid の書評・論評・日記などの記事を、主題に対する主観を明らかにしつつ、奥行きに富んだ内容のブログにしたい。

日記190211・ローストビーフ談義

日記190211・ローストビーフ談義

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 作家の檀一雄は料理好きで知られた。この人の著書に「檀流クッキング(中公文庫)」があり、計量を一切記載しない男の料理の数々が披露される。なに実際にこの本の示すとおりに数々の料理を男の私が作ってみれば、ちょっとした「料理好きの主婦の料理」にも負けないものを作ることができる。この本の「夏から秋へ」の項に「ローストビーフ」があり、作り方が実に要領よく、分かりやすく説明してある。例によって材料の分量は一切記されていないから、そこは自分の感性を信じて作ってみるしかない。

 要するに檀流のローストビーフの作り方を私流に要約してみれば以下の通り。

1. 牛肉のヒレかランプか、なかったら上等の肉を気張って買ってくる。(私は3、4キロくらいの塊を買う)

2. 肉に塩・コショウを振りかけ、もしあればワインにしばらく漬ける(原文には赤と も白とも書いてない)。

3. フライパンにバターを敷き、強い火で肉の表面が焦げるくらいまで炒める。

4. ここで肉を取り出して紐でくくりつける(やるなら凧糸などの木綿糸がいいと思う が、私は面倒だからやらない)。

5. 別にタマネギ、ニンジン、セロリをザクザク薄切りにして小鍋いっぱい作っておく。できればニンニクも薄く切ってまぜておく。

6. 肉を取り出したあとのフライパンに肉汁とバターが残っているからそのフライパンをもういちど熱して 5 の野菜類を入れてしばらく炒める。

7. この炒めた野菜を天火に入る大きさの耐熱ガラスのバットなどに入れる。肉が焦げ過ぎないように肉の上にも炒めた野菜を載せておく。

8. (そのあと適当な焼き加減の火の具合はどうかなどの記述はなく)原文にはただ「ジュージューと肉塊が焼けていくだろう」と書いてあるだけ。

9. 時折覗いてみて、下の野菜や肉汁を肉塊にかけたり、ブドウ酒や酒をふりかけてみるのもいいだろう、と原文には書いてある(面倒だから私は途中のひっくり返しはしないが、最初に使い残りのブドウ酒や日本酒を振りかけることはする)。

10.フライパンに残ったほどよく色づいた野菜の残りには、トマトジュースやピューレやパセリや月桂樹やセージやグローブなど香草を適当に入れ、塩コショウをしてあとはウスターソースや醤油などの有り合せを使って味を整え、うまいグレービーソースを作れ。

11.あとはとがった串などを肉塊にさしてみて、黄色い汁が出るようなら天火から取り出す。出来上がったのである。

 

以上のように、檀流の作り方はまことに簡単だ。檀一雄のやり方は、まずやってみなさい。失敗したら次にやり方を修正してやり直せばよい、というものだ。

戦後すぐの大昔、高校3年生の私が夏休みにワシントンハイツで進駐軍(米軍)将校家族のハウスボーイをして働いていた時、大佐殿の奥さんがローストビーフを焼いているのを横でみていた。大方は上記のとおりで、やはりアメリカ人でも主婦は主婦、ちゃんと凧糸でしばって焼けた肉がダレないようにしていた。ほかに覚えていることは、最初にニンニクをすり下ろしたのを肉塊の表面にすりこんでいたこと。出来上がりは金串を突き刺してみて黄色い汁が出てきたら出来上がりだよ、と言っていたところは同じだった。私にも大きな一切れを食べさせてくれて、当時の日本では夢にもあり得ないことだったので私は大感激であった。

檀一雄のこの項目には、あの料理のまずい英国で(これは私の感想で原文には書いてない)うまいローストビーフは「サボイ」や「シンプソン」などでおいしいものが食べられる、と書いてある。これらの店がその後どうなったか、現存するかなどの情報を残念ながら私は持ち合わせていない。□

(写真はネットから借用)

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日記190201・慶応大学病院の思い出

日記190201・慶応大学病院の思い出

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 東京・信濃町にある慶応病院には、忘れられない戦後すぐの記憶がある。昭和21年の暮のことだったと思う。敗戦からまだ一年ちょっとしか経っていなかった。

 その日私は小学校の5年生だったと思うが、母に言いつけられて一斗ばかりの小豆を持たされて使いに出された。行先は上記慶応病院食養部の松本先生、と言ったと思う。松本先生は当時病人食の大家であられたそうだが、私が知ったのはずっと後のことだ。小学生が一斗ばかりの小豆を背負っていれば、当時のヤミ屋にみられても仕方がなかったろう。私はそんなことにも無知で、母に言われるままに荷物を背負って大井町の自宅を出た。

 東京駅経由で中央線の信濃町の駅までは無事にきたのだが、改札を出て建物の出口に茶色のジャンパーを着たおじさんが立っていたのを見た。彼は私に「坊や、その荷物の中身は何だい」と訊いた。私は「小豆です」と答えた。「どこへ持っていくんだい?」とまた訊かれた。「そこの慶応病院の食養部に届けるんです」というと、そのおじさんは駅前の病院の門を見て「そこの病院だね」と念を入れた。「そうです」と私は答えた。

 当時は食料の統制が厳しくて、ヤミの食料は厳しく取り締まられており、みつかると警察に没収された。米、麦、芋、小豆、大豆などで、穀物は特に皆その対象であった。あとから考えれば、刑事らしいそのおじさんが、私がかついでいる荷物に不審の目を向けるのは不思議ではなかった。ヤミ米のことは知ってはいても、小学生の私にはそんなことは関係なく、ただ母にいわれたから届けにいくだけのことだったのである。

「行ってもいいよ」とそのおじさんは私に言った。ほかのことも訊かれたと思うが覚えていない。門のところで振り返ると、そのおじさんは私の方を見ていて、ずっと行方を追っていたのだろう。子供だから、それも病院に届けるのだから、小学生の私を見逃してくれたのかも知れない。母はそのことを見越して、なんらかの義理があったであろう松本先生に小豆を一斗、自分の子供に託して届けたのであった。当時はこんなことは例外中の例外であったと思う。いまのコンビニに溢れている食べ物を見るたびに、隔世の感がする。一斗はいまの約18リットル、石油缶一缶ぶんの小豆であった。□

(写真はネットから借用)

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日記190121・女のおしゃれ

日記190121・女のおしゃれ

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 女性は美しくなければならない。心も外見も。老いも若きも。その上自分の個性もそれとなく主張しなければならない。

 日本人はよほど群れるのが好きなのか、それが安心できるのか、ファッションもみんなと同じ、右へ習え、だ。黒いスーツがはやれば一斉にみな黒いスーツ。髪のパーマが流行ればみんながパーマ。男も女も実に画一的だ。個性がない。面白くもおかしくもない。その人に似合う、似合わないにかかわらず、みんが着ていれば自分も着る。メダカでも蚊とんぼでも群れていれば安心なのだ。自分の個性に合った服装をしようとしない。髪形も同じ。若い女性はみなお面を半分隠す肩までの長い髪を、お面を半分隠すようにして垂らしている。ここ何十年もポニーテールやアップを見たことがない。つまりよほど変ったヤツだ、と認識されるのが怖いのだろう。アップにすれば水商売と間違えられるのよ、という声も聞いたが、これこそいまの若い者の得意語「差別語」の最たるものではなかろうか。これでは自分の個性に合った服装なんて望むべくもない。

 写真を見てほしい。あるアルゼンチン・タンゴの CD ジャケットから取ったものだが、これはどうだ。日本の女性もこれくらい気の利いた着こなしと髪形をしてよ。もっとも日本人女性がこの服装をそのまますれば、ハニワみたいだとか、あの人は浮いているとか、たちまち否定的な見方が広がるだろうが。ほかのも見てよ。個性的だねえ。日本では見ないファッションだねえ。

 つねづね私は老妻に「巣鴨スタイルだけはしてくれるな」と言っている。老女になって、目立たないだけが取り得の迷彩色のくすんだ服装ではなく、アメリカの老女みたいに自分に合った個性的な服装をしてもらいたいのだ。

今から注文すればこの秋はさっそうと着られるよ。老妻に「費用はオレが持つから」と持ち掛けたら「腰が曲がっているからもうダメよ」とのことだった。腰なんか曲がっていたって構うもんか。女は見た目第一。自分の個性を主張したカラフルなおしゃれをしなくちゃ。□

(ほかの写真はネットから借用)

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日記190111・今年のおせち

日記190111・今年のおせち

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 どちらさまも同じだっただろうが、昨年は9月末くらいから拙宅におせち料理の勧誘広告が DM で舞い込んだ。HP でもこの種の広告がずらり並んだ。いくら近年みな気が早くなったといっても、これは常軌を逸した季節外れの早さだった。自分のところの売上が伸びればあとはどうでもいい、一般の人々の正月やおせち料理に対する理解や常識を踏みにじってもかまわない、というおせち業界のひとりよがりであった、と言ってもいい。

 我が家では、主婦がおせちを作らなくなって(作れなくなって?)外注するのが恒例となってもう何年も経つ。この間世間のおせちはだんだん豪華になって、いままでのおせちは「和風おせち」として市場の片隅に追いやられる一方、「洋風おせち」「中華おせち」「有名店おせち」などが幅を利かせるようになった。なかには「保存食」であるべき「おせち」の常識を破るようなおせちも散見されるようになった。これでは正月の間、ふだんは忙しい主婦の手を休めるのが目的だったおせちの精神?にもとるだろう。ヘンな世の中になったものだ。

 どうせジジイとババアの二人だけだから、豪華でなくてもいい、だが和風にはこだわる。できれば従来の根菜や野菜の煮染めを中心に、日本古来の保存食でもある小魚の甘露煮やかまぼこや昆布巻きや煮豆や玉子焼が入っただけの小さなおせちでいい、もちろんデジタル食品でないおせちがいい、と探したのだがこれがなかなかない。もう私どもの親の世代が年末の忙しいときに半徹夜して作った、調味料といっては塩と醤油だけのおせちなんて、薬にしたくてもなくなってしまった。結局小さめのおせちをひとつ買って、足りない分は自家製、近所の店で買い足し、バラ売り通販の利用の三方法で事足りた。自分の重箱に盛り分ければ豪華絢爛、市販の最上等に勝るとも劣らないおせちができた。貧乏所帯には、おせちについてくるお重の容器代だって惜しいのだ。

 この日ばかりは右党の我が家もお屠蘇を用意して新年を祝い、一年の計を立て、先祖と将来を静かに思いやるのも恒例になった。ちなみに写真のおせちは我が家のおせちではない。

★せち雑煮三途手前の味の良さ(謝)□

(写真はネットから借用)

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日記190101・明けましておめでとうございます

日記190101・明けましておめでとうございます

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 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 日本人なら年の初めはこう言わなくては気が済まない。いやさ、気持ちが悪い。最近は朝夕の挨拶はしないし、目を合わせても目礼もしない人が増えたが、やはり新年の挨拶だけは欠かしたくないものだ。

 閑話休題。元旦夜見る初夢の縁起物といえば「一富士二鷹三なすび」と決まったものだが、読者諸賢はその由来をご存じであろうか。先日読んだ「大相撲こてんごてん・半藤一利著」によると、キーワードは「大願成就」で、これは日本三大仇討からきているという。江戸時代の端唄に「一に富士、二に鷹の羽のぶっ違い、三に名を成す伊賀上野」からきているのだそうだ。言うまでもなく曽我兄弟、忠臣蔵、荒木又右衛門のことである。さすが物識りの半藤さん、元文芸春秋の編集長だった人だけのことはある知識ぶりだ。

 で戦前、戦後もしばらくの間、正月の三が日といえば休日だった。元旦は家族全員が揃って遅めの朝食を取る。膳にはおせちなどのご馳走が並ぶ。私たち子供も、お相伴と称してお屠蘇を一口だけ飲ませてもらう。それが終ると子供は表に遊びに行く。男の子は凧揚げやコマ回し、女の子はお手玉や羽根つきなどだ。夜になると大人も交じってカルタ取りや百人一首などで遊ぶ。だから昔の子供は、意味は解らなくても、小倉百人一首の字句は何首か覚えていた子が多かった。元旦は原則として一日中家族全員が家に揃っていなければならなかった。子供は遊びには行くが遠くにいくことは許されず、大人もこの日だけは一日中家で過さなくてはならなかった。元旦にはふつう来客はなかった。元旦に他人の家に押し掛けることはなかったのである。もっとも政治家や地位ある人の家は別であった。二日目からは年始の来客があった。家の主人も年始回りをした。その情景を詠んだ江戸狂歌が残っている。

★生酔の礼者を見れば大道を横すぢかひに春は来にけり

なんともめでたい歌ではないか。戦後しばらくの正月三が日は、東京の都心はウソのように静まり返っていた。いちど用事があって正月三日だったか、昼間の早い時間に東京・虎ノ門の知人宅を訪れたことがあるが、道路上に人の影はほとんど見なかった。もっとも住宅地では上記の江戸狂歌のような、いとものどかな光景が見られた。もうひとつ。

★又ひとつ年はよるとも玉手箱あけてうれしき今朝のはつ春

当時は数え年で、正月になると誰でもひとつ年を取った。子供は大人から成長を祝ってもらってお年玉をもらった。いずれにしてもめでたい新年を祝うのが世間のしきたりであった。

 元日から商売のために店を開けたり、大売り出しをするようになったのはいつ頃からだろうか。記憶ではいずれにしても前の東京オリンピックのあとからのように思う。つまり1964年以降のことなのである。それまでは元旦に店を開けているのは、お年玉をもらったばかりの子供相手のおもちゃ屋か、映画館も営業していたように思う。そのほかの店は、デパートを含め開けていなかった。いまは正月の感激は薄い。つまり今の正月は新しい季節を寿ぐという意味よりは、単なる連休になってしまったのだろう。以下は私見だが、わたしは江戸時代が完全に終ってしまったのは大正12(1923)年の関東大震災の日、戦前の東京が跡形もなくなったのが昭和39(1964)年の東京国際オリンピック大会が開かれた年、と思っている。□

(写真はネットから借用)

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日記181221・今年のクリスマス

日記181221・今年のクリスマス

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 私も八十ン年の生涯にわたって毎年クリスマスを見てきた。もう戦前のクリスマスの様子を覚えている人は少なかろう。戦前のクリスマスは、教会で集まるだけだった。その場合信者同士のプレゼントの交換はあったように思う。それにしてもごくささやかなものだった。

 戦後は一転してハデハデになった。クリスマスが商業と結びついたのである。もちろんそうなるには、駐留米軍の存在が大きく一役買った。米軍兵士を客とする店が競ってクリスマスの飾り付けをして、米兵の集客に走ったからである。このときアメリカ人なら誰でもキリスト教徒であるという無意識の誤解が生まれた。その後日米間で貿易が盛んになって、年末にはクリスマスカードの交換が行われるようになったが、ユダヤ教徒イスラム教徒のアメリカ人に向って本来キリスト教徒だけに通用するクリスマスカードを自動的に送る妙な習慣がついてしまって今日に至る。

 クリスマスの時期は年末だ。偶然ながら日本には正月元旦を盛大に祝う風習がある。平成になってからはこれに12月23日の天皇誕生日が加わった。来年から年号が変わるそうだから、これは今年でおしまいなのだろうが。あれやこれやが重なって年末年始のお祭り騒ぎは空前の規模となった。だがそれに伴って、クリスマスそのもののお祭りはだんだん地味に傾いていったように思う。もとは宗教的な行事だから、これでいい。街の商店街のスピーカーががなり立てるジングルベルのメロディを聞くこともなくなった。これもいい。あれは単なる騒音だったからだ。

 こういう次第であるから、昔の大騒ぎクリスマスにくらべれば今年のクリスマスはキリスト教信者がひっそりと協会にお参りする静かなクリスマスになって欲しい。ちなみにクリスマスのテーマカラーは赤と緑である。冬にはふさわしい色合いだ。

 クリスマスおめでとう。□

(写真はネットから借用)

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日記181211・ステーキ談義

日記181211・ステーキ談義

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 師走だからといって景気悪い話ばかりでは気が滅入る。うまい話もしよう。今回は私がご馳走のひとつに入れるステーキの話だ。日本人には比較的馴染みの薄いローストビーフもいずれ言及する機会もあるだろう。きょうはステーキだ。

 肉質の話を先にすれば、日本の霜降り肉はステーキに合わない。これは私の強固な意見だ。ステーキはアメリカや豪州からのいい赤肉でなければならない。なるほど霜降り肉にはスキヤキやしゃぶしゃぶには好適だ。でも柔らかすぎて、その上脂身が多過ぎてステーキには向かない。

 それから決定的な違いは量だ。その話の前に、両国の度量衡の違いについて説明しておいたほうがいいだろう。日本では1000gが1キロ。アメリカでは1ポンド(約450g)が単位。これを半ポンド(225g)、四分の一ポンド(125g)と分解する。ステーキに八分の一ポンド(70g)という単位を使うのをアメリカでは見たことがない。

 また日本で一般の素人がステーキ肉をブロックで見ることはほとんどないが、アメリカでは高級なレストランでステーキを頼むと、ウェイターがうやうやしく盆に生肉のブロックをかたまりのまま客のところに持ってきて見てもらう。日本ではだいたい冷蔵庫からブロックが事前に出てくることはない。

 次に重要なのは焼き加減で、これは読者諸賢おなじみのウェルダン、ダン、ミディアム、ミディアムレア、レアと5段階ある。日本人では、赤身の肉を見ると気持ち悪くなるという人もいるが、アメリカ人はブロック肉を見せられると食欲が進むらしい。ステーキの味付けはあっさりと塩と胡椒を生肉に振ってから焼くのが一番うまい。ところでステーキの焼き方だが、わたし流をご伝授しよう。写真の最後に網焼きを載せておくが、この方法は一般家庭向きではない。煙が出るし脂は垂れて火に入って始末におえない。私は普通のテフロンが敷いてあるフライパンを出して、植物性の油を垂らして、塩コショウをして、蓋をしてガスレンジにかけて焼く。ほんとうはバターで焼くと適当な焦げ目がついて見た目もうまく食ってもうまいのだが医者殿に止められているバターは私の場合使えない。で、フライパンを温めるところまでは強火、温まったら中火だ。時間配分は表8、裏2の割合で焼く。あとは上述の焼き加減の好みだけだ。

 あーあ。アメリカのステーキを思い出したら唾が出てきた。輸入肉の赤肉といい塩と胡椒があれば、こうしていくらでも自分でもうまいステーキを焼いて食うことができるのだが。残念ながらローストビーフの話は次回にしよう。これがまたうまいのだし、アメリカの主婦にとってはこれを自分で焼く、焼けることが最大の料理の自慢でもあるのだが。□

(写真はネットから借用)

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