tokyokidの書評・論評・日記

tokyokid の書評・論評・日記などの記事を、主題に対する主観を明らかにしつつ、奥行きに富んだ内容のブログにしたい。

日記190201・慶応大学病院の思い出

日記190201・慶応大学病院の思い出

f:id:tokyokid:20190201102807j:plain

 東京・信濃町にある慶応病院には、忘れられない戦後すぐの記憶がある。昭和21年の暮のことだったと思う。敗戦からまだ一年ちょっとしか経っていなかった。

 その日私は小学校の5年生だったと思うが、母に言いつけられて一斗ばかりの小豆を持たされて使いに出された。行先は上記慶応病院食養部の松本先生、と言ったと思う。松本先生は当時病人食の大家であられたそうだが、私が知ったのはずっと後のことだ。小学生が一斗ばかりの小豆を背負っていれば、当時のヤミ屋にみられても仕方がなかったろう。私はそんなことにも無知で、母に言われるままに荷物を背負って大井町の自宅を出た。

 東京駅経由で中央線の信濃町の駅までは無事にきたのだが、改札を出て建物の出口に茶色のジャンパーを着たおじさんが立っていたのを見た。彼は私に「坊や、その荷物の中身は何だい」と訊いた。私は「小豆です」と答えた。「どこへ持っていくんだい?」とまた訊かれた。「そこの慶応病院の食養部に届けるんです」というと、そのおじさんは駅前の病院の門を見て「そこの病院だね」と念を入れた。「そうです」と私は答えた。

 当時は食料の統制が厳しくて、ヤミの食料は厳しく取り締まられており、みつかると警察に没収された。米、麦、芋、小豆、大豆などで、穀物は特に皆その対象であった。あとから考えれば、刑事らしいそのおじさんが、私がかついでいる荷物に不審の目を向けるのは不思議ではなかった。ヤミ米のことは知ってはいても、小学生の私にはそんなことは関係なく、ただ母にいわれたから届けにいくだけのことだったのである。

「行ってもいいよ」とそのおじさんは私に言った。ほかのことも訊かれたと思うが覚えていない。門のところで振り返ると、そのおじさんは私の方を見ていて、ずっと行方を追っていたのだろう。子供だから、それも病院に届けるのだから、小学生の私を見逃してくれたのかも知れない。母はそのことを見越して、なんらかの義理があったであろう松本先生に小豆を一斗、自分の子供に託して届けたのであった。当時はこんなことは例外中の例外であったと思う。いまのコンビニに溢れている食べ物を見るたびに、隔世の感がする。一斗はいまの約18リットル、石油缶一缶ぶんの小豆であった。□

(写真はネットから借用)

f:id:tokyokid:20190201103024j:plain

f:id:tokyokid:20190201103126j:plainf:id:tokyokid:20190201103209j:plain