tokyokidの書評・論評・日記

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日記190101・明けましておめでとうございます

日記190101・明けましておめでとうございます

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 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 日本人なら年の初めはこう言わなくては気が済まない。いやさ、気持ちが悪い。最近は朝夕の挨拶はしないし、目を合わせても目礼もしない人が増えたが、やはり新年の挨拶だけは欠かしたくないものだ。

 閑話休題。元旦夜見る初夢の縁起物といえば「一富士二鷹三なすび」と決まったものだが、読者諸賢はその由来をご存じであろうか。先日読んだ「大相撲こてんごてん・半藤一利著」によると、キーワードは「大願成就」で、これは日本三大仇討からきているという。江戸時代の端唄に「一に富士、二に鷹の羽のぶっ違い、三に名を成す伊賀上野」からきているのだそうだ。言うまでもなく曽我兄弟、忠臣蔵、荒木又右衛門のことである。さすが物識りの半藤さん、元文芸春秋の編集長だった人だけのことはある知識ぶりだ。

 で戦前、戦後もしばらくの間、正月の三が日といえば休日だった。元旦は家族全員が揃って遅めの朝食を取る。膳にはおせちなどのご馳走が並ぶ。私たち子供も、お相伴と称してお屠蘇を一口だけ飲ませてもらう。それが終ると子供は表に遊びに行く。男の子は凧揚げやコマ回し、女の子はお手玉や羽根つきなどだ。夜になると大人も交じってカルタ取りや百人一首などで遊ぶ。だから昔の子供は、意味は解らなくても、小倉百人一首の字句は何首か覚えていた子が多かった。元旦は原則として一日中家族全員が家に揃っていなければならなかった。子供は遊びには行くが遠くにいくことは許されず、大人もこの日だけは一日中家で過さなくてはならなかった。元旦にはふつう来客はなかった。元旦に他人の家に押し掛けることはなかったのである。もっとも政治家や地位ある人の家は別であった。二日目からは年始の来客があった。家の主人も年始回りをした。その情景を詠んだ江戸狂歌が残っている。

★生酔の礼者を見れば大道を横すぢかひに春は来にけり

なんともめでたい歌ではないか。戦後しばらくの正月三が日は、東京の都心はウソのように静まり返っていた。いちど用事があって正月三日だったか、昼間の早い時間に東京・虎ノ門の知人宅を訪れたことがあるが、道路上に人の影はほとんど見なかった。もっとも住宅地では上記の江戸狂歌のような、いとものどかな光景が見られた。もうひとつ。

★又ひとつ年はよるとも玉手箱あけてうれしき今朝のはつ春

当時は数え年で、正月になると誰でもひとつ年を取った。子供は大人から成長を祝ってもらってお年玉をもらった。いずれにしてもめでたい新年を祝うのが世間のしきたりであった。

 元日から商売のために店を開けたり、大売り出しをするようになったのはいつ頃からだろうか。記憶ではいずれにしても前の東京オリンピックのあとからのように思う。つまり1964年以降のことなのである。それまでは元旦に店を開けているのは、お年玉をもらったばかりの子供相手のおもちゃ屋か、映画館も営業していたように思う。そのほかの店は、デパートを含め開けていなかった。いまは正月の感激は薄い。つまり今の正月は新しい季節を寿ぐという意味よりは、単なる連休になってしまったのだろう。以下は私見だが、わたしは江戸時代が完全に終ってしまったのは大正12(1923)年の関東大震災の日、戦前の東京が跡形もなくなったのが昭和39(1964)年の東京国際オリンピック大会が開かれた年、と思っている。□

(写真はネットから借用)

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