tokyokidの書評・論評・日記

tokyokid の書評・論評・日記などの記事を、主題に対する主観を明らかにしつつ、奥行きに富んだ内容のブログにしたい。

日記180921・JSKS

tokyokid2018-09-21

日記180921・JSKS
 私がまだ現役の頃、勤務先の都合で英国に駐在していたことがあった。1977年頃のことだが、次のような出来事があった。
 ロンドンのヒースロー空港でのこと。場内のターミナルビルはいくつかあって、私たちは乗換えのためにほかのターミナルビルに移動しなければならなかった。時間がほとんどない。当時この空港では、こうした場合、場内を巡回する無料の巡回バスを利用することに決まっていて、たとえ目の前にタクシーがいても、場内の移動のために使うことは禁止されていた。
 私はそれを知っていたので、巡回バスを待つしかないとあきらめていた。でもバスが来るのが遅ければ次の便に間に合わなくなるかも知れない。その時同行していた勤務先の本社の社長が目の前に止ったタクシーが乗客を降ろしたのを見て駆け寄り、私に目の前に見える目的のほかのターミナルビルに行くように頼め、というのだ。私が一瞬躊躇している間に、社長はふところから 10ポンド札を運転手に与えて「JSKSだ、さあ早く乗れ」と宣うのである。その頃の 10ポンドはそれなりの価値があったと思う。私たちは付近に警官がいないか気にしながらともかく乗り込んだ。次の便に間に合ったことは申すまでもない。
 あとで社長に「JSKSって何ですか」と訊いたら「地獄の沙汰も金次第だよ」と宣うた。私は遅まきながら社会人としての勉強をし直したのであった。□
(写真はネットから借用。これらは現在のヒーフロー空港で、ン十年前とは違う、ロンドンタクシーは当時の型)

日記180911・駿府の安田屋本店

tokyokid2018-09-11

日記180911・駿府の安田屋本店
 日本のいいところは、まだ古き良き時代が残っていることだ。蕎麦は国民食ともいうべき食べ物だ。嫌いな人はあまりいないだろう。でも作る方からいえば、蕎麦ほど店によって味の違うものもない。それは蕎麦そのものだけでなく、出汁、種物の場合は種の、果ては器に至るまで、その店の特徴がよく出るものだからだ。さらに言えば、店の飾り付けや雰囲気まで問題にされる。入口あたりに植物の鉢がごちゃごちゃ置いてあったり、店内に植木が持ち込まれていてそれに蜘蛛の巣が張っていたりする店は願い下げにしたい。
 徳川家康の晩年の本拠はずっと駿府であった。今の静岡市である。ここの駿府城は当時数ある名城のなかでもひときわ大きいいい城であったが、明治維新政府の手によって完膚無きまでに打ち壊された。維新政府にしてみれば、仇敵の牙城だから当り前といえば当り前なのだが、ここは徹底してこわされた。その堀のほとりに「安田屋本店」という蕎麦の名店がある。この店の来歴は古く、室町ごろから木綿を川に流して油分を流し去る晒屋を稼業としていたが、幕末のペリー来航の前年だかに蕎麦屋に転業したという老舗なのだ。
 ここでは二八蕎麦はもちろん、十割蕎麦も出す。 それがまたうまいのだ。うまい蕎麦屋がすべてそうであるように、この店の出汁は絶品だ。種物はもちろん、いまどきの店だからサラリーマンが集まる昼飯どきにはマグロのづけ丼と蕎麦のセットも出す。さすがマグロで有名な焼津近くの静岡市ならではのメニューである。いずれにしても蕎麦好きにはたまらない店なのだ。町の中の蕎麦店だから、価格は町の中のごく普通の値段である。観光地の値段だけ高く取る名物蕎麦屋とは訳が違う。
 と、ここまで書いて最近二度目の探検に出掛けた。こんどはメニューも落ち着いて読んだ。その結果、この店は蕎麦屋でありながら蕎麦そのものにはあまり力を入れておらず、近隣のサラリーマンのための昼食屋になっていることを発見した。たとえば蕎麦でいえば、かけはあるがもりはない。蕎麦だけのメニューが貧弱だ。その代わり飯物とセットのメニューはふんだんにある。つまりここは蕎麦屋というより昼食屋なのである。それでもここの蕎麦はうまい。だが板場は蕎麦よりも昼食・定食のたぐいに力を入れているように見える。たしかにそれはそれでうまいしボリュームも満点だ。私が食べたのは蕎麦とまぐろヅケ丼のセットだったが、近くの焼津港のまぐろはたしかにうまかった。
 それを承知で出かける人のために以下を記しておく。 この店は JR静岡駅前からバスで三つ目、歩いてもせいぜい20分くらいしかかからない。機会があったらいちど立ち寄られることを是非お勧めしたい。□
(写真はネットから借用)

日記180901犬の次は人間のいじめ

tokyokid2018-09-01

180901・犬の次は人間のいじめ
8月21日は、あの暑さで気がついたら期日を過ぎていた。已むなく夏休みをいただくことにして一回分抜かしました。申訳ありません。
で、こんな話を聞いた。ある老婦人が小さな愛犬を抱いてドッグランに行った。犬を遊ばせていると、いかにもそれらしい風体の若夫婦が三歳ほどの男の子を連れてやってきた。その三歳児は、老婦人の愛犬に近づくと矢庭に犬の胴を蹴り始めた。その間その子の両親は見ていてもなにも注意しない。老婦人はたまりかねて自分の犬を抱き上げてドックランを去った、というのだ。
 この話を聞いて、ある兄弟のことを思い出した。ここは男、女、男、男の四人兄弟で、長男と長女、次男と三男の年齢がそれぞれ比較的離れている。この兄弟の長女と次男はグルになって末弟の三男を理由もなくいじめる。子供のときからそうだった。三男は長男に助けを求め、結果としてこの兄弟は成人してからも長女と次男、長男と三男のコンビが崩れず人生の終末期を迎える齢になっている。次男が三男をいじめだしたのは、次男が保育園に入ってからのことだったらしい。そのころは戦後の食糧事情が極端に悪いころで、保育園でも家庭で弁当を用意してもたせるのが規則だった。次男は毎朝弁当を持って家を出るのだが、そのうちに保育園には行かないようになり、途中の寺や大きな邸の庭園などに入り込んで時間をつぶし、夕方になるとなにくわぬ顔で帰宅するようになった。いまでいう不登校である。そのころ次男は相手がちょっと手を動かすと自分の右手を反射的に挙げて顔をかばう姿勢をとるようになったのを長男は覚えていた。今にして思えば、この頃次男は保育園でひどいいじめに会い、そのウップンを年端もいかぬ三男に向けて晴らしていたのではいかと、長男はこの話を聞いていまさらながらに気が付いたそうだ。あるいはそうだったかも知れない。
 冒頭のドッグランの話をしながら、その老婦人は「私の犬をいじめた三歳児は、きっと家庭で厳しい親のしつけにでもあって、体罰をふるわれる結果、自分よりも弱い私の犬を蹴ることでウサをはらしていたのではなかろうか」と言っておられた。おそらくその通りであろう。でなければ幼児が理由もなく自分より弱い犬を蹴っていじめることはしないだろう。だとすれば、この子は親を含めて人の愛情に接した経験がない、という不幸な環境に置かれていたのかも知れない。
 してみると、老婦人の愛犬をいじめた三歳児と、三男をいじめた四人兄弟の次男の行動パターンはみごとに一致する。この状況に気が付かなかったのは自分の責任だった、と長男は今でも自分を責めている。四人兄弟の誰にとってももうそれぞれの人生は終わってしまったのに等しい時点まで進んでしまったわけだが。□
(イラストは素材ダス、写真はネットから借用)

日記180811君は8月15日を覚えているか

tokyokid2018-08-11

日記180811・君は8月15日を覚えているか
 君は一九四五(昭和二十)年八月十五日の敗戦の日のことを覚えているか。その前後、戦中戦後の飢餓のことも覚えているか。
 我が家では、田舎に引越した祖父の家に疎開していたから、戦中はまだ食べものがあった。戦後東京の我が家に引き揚げてきてからの約十年がひどかった。文字通り食べるものがなかった。これは当時の日本国民であれば誰でもそうであった。一部の政治家や官僚や軍人など特権階級の家族を除いて。そういう家でもこっそり隠れて食っていた。いわゆるヤミ物資である。
 戦中戦後の食糧難の時代には、飯が雑炊になり、米飯が麦飯になり、さらに米麦がなくなると小麦粉を食べ、それもなくなると芋や野菜だけの食事になり、それも手に入らなくなると自分で野草やイナゴを取ってきて食った。戦後米軍から支給された雑穀は、いまで言う「ふすま」で小麦の皮、つまり家畜のエサだったものだ。それでも食うものがなかったわれわれ日本人は工夫してパンにしたり雑炊にしたりして食った。それで露命をつないだ。間違えてもらっては困ることは、主食だけがなかったのではない。味噌醤油のたぐいから出汁の材料に至るまでなんにもなかった。もちろん砂糖なんて貴重品中の貴重品であった。だからなんでも塩味しかつけられなかった。代用食といえば、順に言うとコメがなくなって大麦に変って麦だけの飯になり、次いで雑炊やすいとんは上の口、次はサツマイモやジャガイモで、これは茹でたりふかしたりして塩をつけてそれだけで食った。もちろん副食物などはない。そのあとは野草やイナゴになるわけだが、いまのような珍味の山菜料理や佃煮ではない。塩だけの主食なしの食べ物とも言えない食べ物だった。写真のような、上品な野菜を食っていたわけではない。このころ、戦中戦後を問わず、外泊しようと思えばどんな田舎でもコメ持参でなければどんな旅館でも食事を出してもらえなかった。覚えているよね。
 君は「手屏風」という言葉を覚えているか。農家の子は学校にまともな弁当を持っていけたがわれわれ都会からの疎開組はまともな弁当など持っていけなかった。それで周囲を憚って机の上の弁当箱のまわりを左手で囲って右手の箸でほかの子に見られないようにして弁当とも言えない弁当もどきを食っていたのである。戦後もかなりしばらく続いたと記憶している。戦後も五年以上経ってから町にはまず蕎麦屋が復活してきて弁当を持っていかなくてもよくなったことの嬉しさを覚えておられるかも知れない。我が家では昭和三十年を過ぎてからやっと人並みの食事を家でとれるようになった。それまでは写真のような代用食で、時には食べるものがないので水だけでガマンしながら辛うじて生きていたのである。つまり都会に住みながら水呑み百姓をやっていたわけだった。ひどい時代だったが、平成も終りに近づいたいまではこのことを僅かでも覚えているのは七十歳から上の人たちだけだろう。□
(写真はネットから借用)

日記180801・東芝の次は三菱?

tokyokid2018-08-01

日記180801・東芝の次は三菱?
 21世紀は日本の世紀、と言ったのはどこの誰だったのか。この言葉とは裏腹に、1995年くらい以降の日本はバブルはじけて以来浮かぶ瀬もない。さすがのマスコミもいまでは「バブルはじけて何年」という言い方をしなくなった。世の景気は悪くなる。物価は上がる。少子高齢化は進む、若い人の働き口はない。八方ふさがりとはこのことだ。再来年には二回目の東京オリンピックが開催されるが、それまでに景気は上向きそうもない。であるとすれば四半世紀にわたる景気下降という未曽有の事態に日本は追い込まれることになる。
 企業業績も目をおおいたくなるほどだ。すでに日産自動車はフランスのルノーに売却された。シャープも台湾企業に売られた。製薬一位の武田製薬も、取締役陣は外人一色。日本ペイントシンガポールの華僑に本丸を乗っ取られたとニュースになった。東芝アメリカの原子炉メーカーを買収したのが大失敗で、現在懸命に資産の切り売りでなんとか乗り切ろうとしている。その結果家電名門の東芝ブランドを中国企業に売り渡す交渉のニュースが何度も流れている。もう売れてしまったのかも知れない。
 次に外国に身売りされる大企業はどこか。多分三菱自動車だろう。この会社に限らず、三菱グループ会社はこのところ不祥事続きである。トラックが走行中にタイヤが外れて母子を殺した事件、建造中の豪華客船で大火事を出して納期を守れず大損害を出した事件、自動車の生産ラインでデータの偽装が明るみにでてしまった事件。この事件がもとになって、とうとう三菱自動車日産自動車の傘下に入ってしまった。ということは、三菱自動車ルノーの傘下に入ってしまったことに等しい。もともとルノーは日本の軽自動車の生産技術がノドから手が出るほど欲しかったのだから、これはなるべきしてなった路線ではなかったか。
 かくして三菱自動車は、東芝の後塵を拝することになって、日産つまりルノーに呑み込まれるのは目に見えている。経営者もいない、技術者もいない、なにより主義主張を明確にできる企業人がいない。日本企業の凋落というより没落を見る思いがする。戦後本田宗一郎井深大盛田昭夫土光敏夫稲盛和夫など、戦後日本の工業再興の担い手だった人々の後継者はもうでてこないのか。日本の工業界は、なんとかしてこの悪しき予想を裏切ってほしい。□
(写真はネットから借用)

日記180721・巻き爪

tokyokid2018-07-21

日記180721・巻き爪
 爪は病院の診察科でいうと皮膚科の担当だそうだ。その爪で「巻き爪」という病気がある。主として加齢によるらしいが、爪が著しく変形してしまうのである。足の親指を例にとっていうと、二つに折れて真ん中が盛り上がってしまったり、ひどいのになると爪が上を向いてしまったりする。こうなると爪切りも自分ではしにくくなる。矯正器や手術という方法もあるが、場所が場所だけに矯正器をつけて靴を履くわけにもいかないし、手術も億劫だ。痛くなければそのまま爪さえ切ってもらえれば一番いいのである。
 問題はこうなったとき、爪を切ってくれる人がいないことだ。場所が場所だけに、他人に切ってもらうにしても、深爪をしたり、下の肉を切られたりしたら大変痛い場所なのである。世にマニキュアといって、美容を目的としてその一環として爪を切ってくれる店はいくらもあるが、彼らはふつう巻き爪を処理する技術は習っていない。程度にもよるだろうが、だから大抵の店では巻き爪切りに対応できない。もちろん病院の整形外科でもただ爪なんぞ切ってくれない。平塚のさる地域病院では看護相談室というのがあっていろいろな相談に乗ってくれるが、そこでも巻爪を切るだけの外部施設の情報はないということだった。
 そして真の問題はこの巻き爪を切る技術者がいないことである。この技術の名前すらない。頭髪なら理容師、美容師など、前述のマニキュアならマニキュア師などと普通名詞がすでに存在しているが、この巻き爪を切ってくれる人がたとえ居たとしても、技術名がないから職業別電話番号調べをすることもできない。首都圏のような人口密集地でも、この巻き爪専門の爪切り師を見付けるのは大変だ。
 私は幸いにして70キロ離れた町に「爪専科」という専門の爪切り師をみつけた。爪切り料金は理容代金よりだいぶ高いし、電車賃もかなりかかるしでなかなか痛い出費だがやむを得ない。定期的に通うしかない。□
(写真はネットから借用)

日記180711・あんパン

tokyokid2018-07-11

日記180711・あんパン
 人は老いると味覚が幼時に返るというが、それは本当らしい。あんパンの嫌いな子供は存在しないと思うが、三途の川を目前にしたこちとらも最近はとみに・あんパンを食う頻度が高まってきた。現役のときはこんなことはなかったことなのに。
 明治期になって西洋からパンが入ってきて、それで餡を包むことを思い付いたのは現在でも盛業中の「銀座の木村家」である。真ん中のヘソのところに桜の花びらをあしらったのもいかにも日本人の素晴らしい発想であった。
 最近ネットで静岡県下田市に「ハリスさんの・あんパン」なるものを発見した。写真で見る通り、うまそうな・あんパンだ。黒船来航の下田だからこういうネーミングになったと思うが、外人のハリスさんなる人がいてこの・あんパンを作り上げたのかどうか、いちど現地で確かめたいと思っている。もちろん食ってみたいと思うがまだ果たしていない。楽しみはこれからだ。□
(写真はネットから借用)