tokyokidの書評・論評・日記

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日記180811君は8月15日を覚えているか

tokyokid2018-08-11

日記180811・君は8月15日を覚えているか
 君は一九四五(昭和二十)年八月十五日の敗戦の日のことを覚えているか。その前後、戦中戦後の飢餓のことも覚えているか。
 我が家では、田舎に引越した祖父の家に疎開していたから、戦中はまだ食べものがあった。戦後東京の我が家に引き揚げてきてからの約十年がひどかった。文字通り食べるものがなかった。これは当時の日本国民であれば誰でもそうであった。一部の政治家や官僚や軍人など特権階級の家族を除いて。そういう家でもこっそり隠れて食っていた。いわゆるヤミ物資である。
 戦中戦後の食糧難の時代には、飯が雑炊になり、米飯が麦飯になり、さらに米麦がなくなると小麦粉を食べ、それもなくなると芋や野菜だけの食事になり、それも手に入らなくなると自分で野草やイナゴを取ってきて食った。戦後米軍から支給された雑穀は、いまで言う「ふすま」で小麦の皮、つまり家畜のエサだったものだ。それでも食うものがなかったわれわれ日本人は工夫してパンにしたり雑炊にしたりして食った。それで露命をつないだ。間違えてもらっては困ることは、主食だけがなかったのではない。味噌醤油のたぐいから出汁の材料に至るまでなんにもなかった。もちろん砂糖なんて貴重品中の貴重品であった。だからなんでも塩味しかつけられなかった。代用食といえば、順に言うとコメがなくなって大麦に変って麦だけの飯になり、次いで雑炊やすいとんは上の口、次はサツマイモやジャガイモで、これは茹でたりふかしたりして塩をつけてそれだけで食った。もちろん副食物などはない。そのあとは野草やイナゴになるわけだが、いまのような珍味の山菜料理や佃煮ではない。塩だけの主食なしの食べ物とも言えない食べ物だった。写真のような、上品な野菜を食っていたわけではない。このころ、戦中戦後を問わず、外泊しようと思えばどんな田舎でもコメ持参でなければどんな旅館でも食事を出してもらえなかった。覚えているよね。
 君は「手屏風」という言葉を覚えているか。農家の子は学校にまともな弁当を持っていけたがわれわれ都会からの疎開組はまともな弁当など持っていけなかった。それで周囲を憚って机の上の弁当箱のまわりを左手で囲って右手の箸でほかの子に見られないようにして弁当とも言えない弁当もどきを食っていたのである。戦後もかなりしばらく続いたと記憶している。戦後も五年以上経ってから町にはまず蕎麦屋が復活してきて弁当を持っていかなくてもよくなったことの嬉しさを覚えておられるかも知れない。我が家では昭和三十年を過ぎてからやっと人並みの食事を家でとれるようになった。それまでは写真のような代用食で、時には食べるものがないので水だけでガマンしながら辛うじて生きていたのである。つまり都会に住みながら水呑み百姓をやっていたわけだった。ひどい時代だったが、平成も終りに近づいたいまではこのことを僅かでも覚えているのは七十歳から上の人たちだけだろう。□
(写真はネットから借用)