tokyokidの書評・論評・日記

tokyokid の書評・論評・日記などの記事を、主題に対する主観を明らかにしつつ、奥行きに富んだ内容のブログにしたい。

コラム・わたしのアメリカ観察 2

tokyokid2011-10-07

アメリカ初体験

 わたしが生れて初めてアメリカを実感したのは、戦時中の空襲であった。昭和17(一九四二)年4月18日、太平洋上のアメリカ空母ホーネットから出撃したドゥーリトル中佐率いる双発爆撃機16機のうち13機が東京を襲い、他は名古屋、神戸などを初空襲した。わたしはそのとき小学校(当時は国民学校)一年生で入学したばかり。学校から東京・品川区にあった家に帰り着いて、背中からランドセルを降ろした瞬間、ドシン、ドシンと腹の底に響くような音がして、居間のガラス戸がビリビリと震えた。自宅から2キロほど離れたところにある日本光学(現ニコン)本社工場に爆弾が落とされたのだとあとで知った。これがわたしのアメリカ初体験であった。このときの被害は大したものではなかったが、のちに東京にもエンジンを4発搭載した大型のB29が大編隊を組んでたびたび空襲にくるのを目撃した。やがてわれわれ小学生は、その空襲を避けて地方に疎開させられた。長く苦しい戦中・戦後の始まりであったが、このときはまだ飛行機(爆撃機)を見ただけであった。
*  *  *
 つぎのわたしのアメリカ体験は戦後に飛ぶ。昭和20(一九四五)年8月15日に日本の敗戦が決まると、その月の末には連合軍最高司令官・マッカーサー元帥が厚木の飛行場に降り立って戦後の占領時代が始まった。すぐに東京には進駐軍の兵士たちが溢れかえった。連合軍総司令部(GHQ)は日比谷の第一生命ビルに置かれ、付近の丸の内や銀座はジープを乗り回す米兵で一杯になった。日本では戦争前から自動車はあるにはあったが、戦時中は軍に徴用されて街を走る自動車の数は極端に減っていた。ガソリンがなく、木炭で走る自動車があった時代だった。われわれ小学生は当時パンパンと呼ばれた日本人の街娼をいっしょに乗せて街を走り回り、ときには子供たちに向かってチューインガムやチョコレートを投げ与える米兵の乗ったジープと当時わずかに走っていた日本の自動車の数をくらべて、子供心にも国力の差を思い知ることになった。
*  *  *
 私事にわたるが、わたしの家は戦前、英国国教のキリスト教聖公会の信者で、毎週日曜日に教会に出向く習慣があった。教会では英国から派遣の女性宣教師と接触する機会があり、礼拝のあとで両親とともに自宅に招かれて英国特有の「ハイ・ティー」のもてなしにあずかることもあった。古稀を過ぎた今でも、食卓の紅茶とビスケットの匂いを思い出すことができる。
*  *  *
 当時英国人の女性宣教師は本国でも選りすぐりの人たちが日本にきていたようで、英語の「淑女」や場合によっては「貴婦人」に相当する人もいたと思う。当然この人たちの立居振舞は英国流に優雅でしかも厳格でもあったことが記憶に残っている。これらの人たちは、開戦直前の交換船によって英国に帰国したが、わたしは戦後同じ白人のアメリカ人を見たとき、無意識のうちにわたしの知っていたこれら英国人と重ね合わせて、アメリカ人というのはずいぶん違った人たちだ、と認識していたようである。そのあと個人的にアメリカ人との接触が増えるにつれ、この認識はますます深くなっていった。□
*写真は当時日本を爆撃したアメリカの主力爆撃機・B−29(WEBから転載)